2012年7月31日火曜日
31日「十字架につけられたキリスト」
1コリント1:23-25 新約p 300(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
*イエス・キリストの十字架は過去のものですが、
今を生きる私たちとつながっているものです。
十字架に力があります。十字架に知恵があります。
十字架に本当の賢さがあります。
十字架に私たちの必要のすべてがあります。
2012年7月30日月曜日
30日「イエスの宣教」
マタイ9:35-38 新約p 17(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
*収穫とは私たちを必要としている人のことと考えることもできます。
私たちを必要としながらも、私たちの働きが届かない場所が
まだまだあるということです。
私たちが一人でできることには限界があるでしょう。
私たちの働きを様々な形でサポートしてくれる存在が欠かせません。
私たちの活動のサポーターが次々と与えられますように。
YCT例会
夏の予定について話しあいました。
去年好評だったBBQの日程を検討し、
向島のマリンユースセンターに問い合わせたところ、
すでに予約で一杯。
結局、びんご運動公園のキャンプ場ですることになりました。
去年好評だったBBQの日程を検討し、
向島のマリンユースセンターに問い合わせたところ、
すでに予約で一杯。
結局、びんご運動公園のキャンプ場ですることになりました。
2012年7月27日金曜日
27日「古い人を脱ぎ捨て」
コロサイ3:7-11 新約p 371(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
*信仰の世界は建築のようなものです。
キリストを受け入れ、救いを経験した人は、
素晴らしい建築物の設計図を受け取っています。
ですから、そこで完成なのではなく、
そこから日々建てあげられていくのです。
「日々新たにされて、真の知識に達するのです。」
とはそんな意味合いと言えるでしょう。
2012年7月26日木曜日
26日「心の底から」
エフェソ4:20-24 新約p 356(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
心の底から新たにされて、
神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
*「断捨離」という言葉があります。
いろいろ溜め込んでいるものを整理するそうですが、
本当に必要なものを見つめ直す時間を持つことは
新しい出発には必要です。
聖書も新しい生き方をするためには、
「古いものを脱ぎ捨てる」ように勧めています。
何処かに整理して、片付けるのではなく、
「捨てる」という、積極的な行動と決断が必要なのです。
忙しい日々、追われる日々かもしれませんが、
自分が握り込んでいる価値観が、
本当に必要で大切なのか、見つめ直す時間を持ちたいものです。
2012年7月25日水曜日
25 日「新しい霊を授ける」
エゼキエル11:17-20 旧約p 1309(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。
彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。
わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
*創造主が人を創造した目的は、
人とコミュニケーションをとるためです。
自発的な、愛のあるコミュニケーションを
人との間に保ちたいと願っておられます。
「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」との言葉は、
創造主との深いコミュニケーションが成立している姿を語っています。
2012年7月24日火曜日
24日「神の本性にあずからせ」
2ペトロ1:3-7 新約p 436(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。
だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
*神の本性にあずかるとは、
ある意味で私たちが神様のようになるということです。
私たちが獲得できる神の本性とは何でしょうか
それは愛です。
神様の愛が私たちの内にとどまり、
神様は私たちを通して人を愛されるのです。
その状況はある意味で、私たちが神様となっていると言えるでしょう。
今日一日、私たちの内に愛がとどまり、
周囲に分け与えられていく一日となりますように。
2012年7月23日月曜日
23日「キリストと結ばれる人は」
2コリント5:16-17 新約p 331(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
*キリストに結ばれるとき、自分自身が、自分の人生が新しいものとなります。
人は誰でも、いつでも、古い生き方から決別し、
新しい価値観の中で生きるようになれるのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
*キリストに結ばれるとき、自分自身が、自分の人生が新しいものとなります。
人は誰でも、いつでも、古い生き方から決別し、
新しい価値観の中で生きるようになれるのです。
2012年7月22日日曜日
ファミリーサンデー
礼拝後に、ジャンボおにぎりなどの昼食をとって、
千光寺体育館へ行きました。
暑い中でしたが、子どもたちは元気いっぱい。
2時間遊び続けました。
熱中症に気をつけてこまめに水分補給。
帰ってきてから、しばらくは涼しい教会の中で過ごしていましたが、
夕方にはまた公園へ。
子どもたちは本当に元気です。
2012年7月21日土曜日
ファミリーサンデー礼拝 明日
10:15〜 ファミリーサンデー礼拝です。
杉原千畝のビザによって助けられた、
ドラ・グリーンバーグさんの証言のDVDを上映します。
午後は子どもたちを中心に、千光寺体育館でお楽しみ会です。
杉原千畝のビザによって助けられた、
ドラ・グリーンバーグさんの証言のDVDを上映します。
午後は子どもたちを中心に、千光寺体育館でお楽しみ会です。
2012年7月20日金曜日
20日「ダビデに油を注ぐ」
サムエル上16:11-13 旧約p 453(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
*ダビデは少年で、父親の手伝いで羊飼いの仕事をしていました。
だれも期待をしていなかったようですが、
創造主はダビデを次の王として選ばれたのです。
もちろん、すべての才能が揃っていたのではなく、
その後失敗を重ねながら準備をして行きました。
人は期待していなくても、創造主は私たちの働きと成長を期待しておられます。
今日一日が、将来にしっかりとつながる一日となりますように。
2012年7月19日木曜日
19日「サウル王を戒める」
サムエル上15:22-23 旧約p 452(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
サムエルは言った。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
反逆は占いの罪に高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる。」
*献げ物は創造主が腹ペコだから捧げるのではありません。
私たちが創造主の言葉にどのように応じているかが重要なのです。
サウル王は目の前にある財産に目が眩み、
自分を中心に献げ物をして最も重要な点を見失ってしまいました。
今日一日、目の前の損得だけを考えること、
また自分中心に判断しないように心がけたいものです。
2012年7月18日水曜日
18 日「主は彼と共に」
サムエル上3:19-21 旧約p 433(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。
主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。
*サムエルが民に認められたのは、
その言葉が信頼できるものであることを認めたからです。
私たちが人を信頼することも、相手の言葉の真実性を確認してからではないでしょうか。
サムエルの真実性の源は、彼が創造主と出会い、
言葉によって創造主を知ったことによります。
私たちが今も生きるキリストと御言葉によって知り、出会うことによって、
私たち自身の信頼性が増すという恵みを受け取ることができるのです。
2012年7月17日火曜日
17日「お話しください」
サムエル上3:8-10 旧約p 432(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
*サムエルの育ての親の立場である祭司エリへの態度は
考えられないほどしもべ的です。
夜眠りかけていたと思われますが、
呼ばれた時にすぐに起きて、エリのもとに出かけて行きます。
普段から呼ばれたならすぐに動くという習慣が
身についていたのだと思われます。
祭司エリへの態度が、神様への態度へと移行して行ったのです。
サムエルの姿は私たちが神の言葉をどのような気持ちと態度で受けるかを教えています。
そしてそれは人の言葉をどのように普段から聞いているのかと
深く関連しているのです。
2012年7月16日月曜日
16日「忠実な祭司」
サムエル上2:35 旧約p 432(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む。
*この時代、神の言葉を聞くことのできる人がいませんでした。
そこで少年サムエルが選び出されたわけです。
創造主の選びは、私たちの想像のつかない意外なものに映ったことでしょう。
同じように創造主は私たちを選び出して用いてくださるのです。
2012年7月15日日曜日
15日「ハンナの祈り」
サムエル上1:13-17 旧約p 428(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、
彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」
ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、
「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
*サムエルが生まれたのは、祈りの結果であることが強調されています。
子どもは天からの授かりものと言う言葉がありますが、
十分に意識はされていないのではないでしょうか。
子どもが親の所有物としての位置づけにあることが、
様々な問題の根底にあるように感じます。
人が人を産み出すことは神秘的なことで、
決して当たり前のことではありません。
授かりものとしての子どもの存在をもう一度認識し、
子育ての在り方を見つめ直してみてはいかがでしょうか。
2012年7月14日土曜日
14日「キリストと教会」
エフェソ5:26-30 新約p 358(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
*夫婦は一体であるというのが聖書の基準です。
夫は妻を愛するように求められていますが、
愛し方は自分勝手で良いのではありません。
キリストが教会を愛したように愛すること。
自分自身を愛するように妻を愛することが求められているのです。
そしてイエス・キリストは私たちを愛して、十字架という大きな犠牲を払ってくださいました。
愛することの基準を、目に見えるように示してくださったのです。
DVなどが恋人間でも問題になっています。
本当に愛するとはどういうことなのかを
お互いが理解し共通の価値観を持つことが大切なのです。
2012年7月13日金曜日
13日「神とエルサレム」
イザヤ62:4-5 旧約p 1163(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
主があなたを望まれあなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめをめとるように
あなたを再建される方があなたをめとり
花婿が花嫁を喜びとするように
あなたの神はあなたを喜びとされる。
*聖書では神様とイスラエル民族の関係を
夫婦あるいは恋人の関係として描いています。
それは神様を恐ろしい相手として捉えるのではなく、
愛してくださる方、愛すべき方として捉え
関係を築くように勧めているからです。
創造主は私たちを喜びの対象と見てくださいます。
私たちはキリストを通して提供されている救いを
ウェディングドレスのように着ることが求められているのです。
2012年7月12日木曜日
12日「夫たちよ」
1ペトロ3:7 新約p 431(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
*お互いの間に尊敬の念があるとき、関係は良好なものとなるでしょう。
人間ですから欠点はありますが、長所もあるはずです。
今日一日、私たちが出会う相手の長所を見つめなおしてみましょう。
同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
*お互いの間に尊敬の念があるとき、関係は良好なものとなるでしょう。
人間ですから欠点はありますが、長所もあるはずです。
今日一日、私たちが出会う相手の長所を見つめなおしてみましょう。
2012年7月11日水曜日
11 日「妻たちよ」
1ペトロ3:1-5 新約p 431(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。
神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
*月は遠くから見ると、美しく輝いていますが、
近づけばデコボコで、自分から光っていないことが明らかになります。
人間関係も同じようなものではないでしょうか。
近しい関係であればあるほど、外面ではなく内面が問われていきます。
今日一日、自分の内面を磨くことに意識を向けることができますように。
また、キリストによって自分が輝くことを知ることができますように。
2012年7月10日火曜日
10日「人に尊ばれる」
ヘブライ13:4 新約p 418
結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
*結婚は本人同士のものですので、お互いの気持ちが最優先されるでしょう。
けれども、結婚は本人を取り巻く家族にとっても重大なことです。
多くの人に祝福される結婚を目指すことは大切なことです。
そして何よりも自分たちの結婚が創造主の手の中で導かれていることを、知ることが重要です。
結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
*結婚は本人同士のものですので、お互いの気持ちが最優先されるでしょう。
けれども、結婚は本人を取り巻く家族にとっても重大なことです。
多くの人に祝福される結婚を目指すことは大切なことです。
そして何よりも自分たちの結婚が創造主の手の中で導かれていることを、知ることが重要です。
創造主の手の中で導かれ、完成に向かって行くのです。
2012年7月9日月曜日
7/8礼拝メッセージ
ルツ記のメッセージは全ての時代へのメッセージと言えます。
・恵まれた中で生きている人に対しては、一人の人の信仰の行動によって、今の自分があることを思い起こさせるメッセージがあります。
・困難の中で生きている人に対しては、信仰者ルツに目を注いで、全能の神の導きと恵みを思い起すように励ましているのです。
<神に導かれたハッピーエンド>
ルツの物語は、全能の神の手の中で導かれ、幸福を獲得した物語です。
ボアズという一人の人がルツと結婚し、子どもが生まれるというハッピーエンドで結ばれていますが、
ヘブライ語の聖書の最後の単語は「ダビデ」という言葉です。
イスラエルの王国を築き、救い主の先祖となるダビデが誕生するために、
神様が導かれた出会いであることを思い起こさせるのです。
さて、モアブという外国から、イスラエルのベツレヘムへ移住したルツは、
生活のために落穂を拾います。その畑は、後に夫となるボアズの畑でした。
聖書は「たまたま」畑に導かれたと記しています。
他の聖書の訳では「はからずも」と、単なる偶然ではなく、全能の神の手に引かれたことが強調されています。
ボアズは全能の神の手に導かれたルツに対して、この畑を離れないように勧めます。
「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。」(ルツ2:8)
ボアズはイスラエル民族で、ルツは異邦人のモアブ民族です。
二人が結婚したことは、キリストとわたしたち異邦人の教会が一つになることを示しています。
そしてボアズがルツを自分の畑に引き止めたように、
キリストも私たちを招き、ご自分の恵みの場から離れないように勧められます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)
「わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
ボアズの畑でルツは落穂を拾いました。
けれどもその落穂は、ルツのために用意された、わざと落とされたものでした。
キリストの畑にも恵みが満ちています。
私たちは与えられる恵みによって生かされるのです。
ボアズはルツの生活を支えるために、わざと落穂を落とすように命じました。
キリストも私たちを日々保ち、生かすために恵みを与えてくださるでしょう。
キリストは今日、私たちを招いておられます。
「わたしの愛にとどまりなさい。」
神は愛なり
<ナオミから離れない決意>
ルツが素晴らしい祝福を受け取った原点を考えてみましょう。
モアブの地からユダヤのベツレヘムに移るときのルツの決心が、
祝福と信仰の原点と言う事ができます。
ナオミはルツが自分の世話だけをして、生涯を送ることを不憫に思い、
ルツに自分の道を歩むように進めます。
けれども、ルツは固い決心をしてこのように言いました。
「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
ルツの言葉には、ただ単にナオミから離れないというだけではなく、
ナオミの信仰からも離れないとの決意をみることができます。
たった一人で生きていかなければならないナオミに同情するだけではなく、信仰宣言が含まれています。
「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」
ではナオミの信仰とはどのようなものでしょうか。
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」(ルツ1:20)
自分を苦しい目に合わせたのは、「全能者」だと告白しています。
ただの神ではなく、「全能者」なのです。
今は不幸の中で過ごしているが、何でもできるお方の手の中で、わたしは歩んでいるとの告白です。
裕福であったヨブが、試みられたときこのように告白しています。
「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ2:10)
ナオミの神を自分の神とするとは、
良いときも悪いときもどんな時も全能の神の手の中にあるとの信仰に立つことなのです。
ルツの働きと信仰はダビデ王の誕生に結びつきました。
異邦人である私たちの信仰と働きは、キリストがもう一度来られるときに結びつくのです。
今日、ルツの信仰が私たちのものとなりますように。
キリストにしっかりと結びつき離れないとの告白の中で、
主の御名を唱えましょう。
「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。」(詩編80:19)
我は主なり
・恵まれた中で生きている人に対しては、一人の人の信仰の行動によって、今の自分があることを思い起こさせるメッセージがあります。
・困難の中で生きている人に対しては、信仰者ルツに目を注いで、全能の神の導きと恵みを思い起すように励ましているのです。
<神に導かれたハッピーエンド>
ルツの物語は、全能の神の手の中で導かれ、幸福を獲得した物語です。
ボアズという一人の人がルツと結婚し、子どもが生まれるというハッピーエンドで結ばれていますが、
ヘブライ語の聖書の最後の単語は「ダビデ」という言葉です。
イスラエルの王国を築き、救い主の先祖となるダビデが誕生するために、
神様が導かれた出会いであることを思い起こさせるのです。
さて、モアブという外国から、イスラエルのベツレヘムへ移住したルツは、
生活のために落穂を拾います。その畑は、後に夫となるボアズの畑でした。
聖書は「たまたま」畑に導かれたと記しています。
他の聖書の訳では「はからずも」と、単なる偶然ではなく、全能の神の手に引かれたことが強調されています。
ボアズは全能の神の手に導かれたルツに対して、この畑を離れないように勧めます。
「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。」(ルツ2:8)
ボアズはイスラエル民族で、ルツは異邦人のモアブ民族です。
二人が結婚したことは、キリストとわたしたち異邦人の教会が一つになることを示しています。
そしてボアズがルツを自分の畑に引き止めたように、
キリストも私たちを招き、ご自分の恵みの場から離れないように勧められます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)
「わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
ボアズの畑でルツは落穂を拾いました。
けれどもその落穂は、ルツのために用意された、わざと落とされたものでした。
キリストの畑にも恵みが満ちています。
私たちは与えられる恵みによって生かされるのです。
ボアズはルツの生活を支えるために、わざと落穂を落とすように命じました。
キリストも私たちを日々保ち、生かすために恵みを与えてくださるでしょう。
キリストは今日、私たちを招いておられます。
「わたしの愛にとどまりなさい。」
神は愛なり
<ナオミから離れない決意>
ルツが素晴らしい祝福を受け取った原点を考えてみましょう。
モアブの地からユダヤのベツレヘムに移るときのルツの決心が、
祝福と信仰の原点と言う事ができます。
ナオミはルツが自分の世話だけをして、生涯を送ることを不憫に思い、
ルツに自分の道を歩むように進めます。
けれども、ルツは固い決心をしてこのように言いました。
「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
ルツの言葉には、ただ単にナオミから離れないというだけではなく、
ナオミの信仰からも離れないとの決意をみることができます。
たった一人で生きていかなければならないナオミに同情するだけではなく、信仰宣言が含まれています。
「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」
ではナオミの信仰とはどのようなものでしょうか。
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」(ルツ1:20)
自分を苦しい目に合わせたのは、「全能者」だと告白しています。
ただの神ではなく、「全能者」なのです。
今は不幸の中で過ごしているが、何でもできるお方の手の中で、わたしは歩んでいるとの告白です。
裕福であったヨブが、試みられたときこのように告白しています。
「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ2:10)
ナオミの神を自分の神とするとは、
良いときも悪いときもどんな時も全能の神の手の中にあるとの信仰に立つことなのです。
ルツの働きと信仰はダビデ王の誕生に結びつきました。
異邦人である私たちの信仰と働きは、キリストがもう一度来られるときに結びつくのです。
今日、ルツの信仰が私たちのものとなりますように。
キリストにしっかりと結びつき離れないとの告白の中で、
主の御名を唱えましょう。
「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。」(詩編80:19)
我は主なり
9日「イサクとリベカ」
創世記24:57-61 旧約p 37(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
リベカを呼んで、「お前はこの人と一緒に行きますか」と尋ねた。 「はい、参ります」と彼女は答えた。
彼らは妹であるリベカとその乳母、 アブラハムの僕とその従者たちを一緒に出立させることにし、
リベカを祝福して言った。「 わたしたちの妹よあなたが幾千万の民となるように。 あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」
リベカは、侍女たちと共に立ち上がり、らくだに乗り、
潔い姿は、まぶしく映ります。
情熱や純粋さが人の心を打つからです。
リベカの潔さは、キリストから招かれたクリスチャンが、応える姿と重なっています。
今日一日、主の招きに応え、 きっぱりとした態度で主に従う一日となりますように。
また、何事に対しても潔い態度で臨むことができますように。
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