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2016年3月29日火曜日

祝イースター

祝イースター!
復活祭の喜びが、皆様にありますように。

<日曜日のメッセージより>
聖書を見ると、キリストに従っていた弟子たち、婦人たちの誰一人として、復活を期待していなかったことが記されています。
また、目の前に復活されたキリストを見ていても、疑いの心が残っていたことも正直に記されています。
キリストが私たちの心の目を開いてくださるとき、復活を信じ、経験を通して実体験として知ることができるのです。



2013年12月16日月曜日

クリスマスメッセージ①「真実の幸いの道を進む」

毎年出会うクリスマスの御言葉を開き、メッセージを準備していましたが、主は今年も新しい光を与えてくださいました。

<母マリアと最初の人間>
母マリアの人生は、決して楽なものではありません。
しかし信仰に立って彼女の人生を見るとき、聖書が評価している通り、「幸いな人」と言うことができます。

私たちは皆、幸せになることを願っています。
マリアが手にした幸せが私たちのものとなるために、どのようにすればよいのでしょうか。
マリアはどのようにして、幸せを得たのでしょうか。

聖書を見ていくとき、マリアの行為と最初の人間の行為が正反対になっていることを見ることができます。

最初の人間アダムとエバは罪を犯し、最も幸せな状態から転がり落ちていきました。
彼らが犯した過ちをしっかりと理解し、その反対を行うことによって、マリアは幸いな人となったと言えるのです。

私たちも、最初の人間を反面教師として、その正反対を行うことによって、聖書の示す幸せへとたどり着くことができるのです。

今日は、マリアが最初の人間の行為の正反対を行った二つの点を取り上げたいと思います。


<自由意志>
1つ目は「神の言葉」への対応の仕方です。

神が人間を創造されたとき、与えられた最も大きなものは「自由意志」です。
神は人間をロボットのようには創造されず、「自由意志」を与えられました。
それは人が自発的に神を愛し、人と交流するためです。

では人は神への愛をどのように表していたのでしょうか。
愛は、相手の言葉を大切にするという形で現すことができます。

「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)
たった一つの神の戒めを守ること、これが人間にとって神を愛することの表現となっていました。

けれども人はその自由意志によって、神の掟を破ってしまいました。

人は神の言葉を捨てることによって、神ご自身を捨ててしまったのです。
そしてその行為は、結果としてエデンの園で持っている幸福を捨てることとなってしまいました。

では、マリアの行為はどうでしょうか。
最初の人間、神の言葉に疑問を抱いたように、マリアも神の言葉に疑問を抱きました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

けれども、マリアは最終的に答えました。
「お言葉どおり、この身に成りますように。」

今日私たちも、自分の意志を大いに働かせて、神の言葉を握りましょう。
「神から出る言葉で、実現の力のないものは、ひとつもありません。」(ルカ1:37、詳訳聖書)
「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)



<主の僕となる>
2つ目は神様と自分との関係のあり方です。
最初の人間が善悪を知る木の実を食べるきっかけとなったのは、蛇の姿をとったサタンの誘惑でした。
サタンは「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と誘います。

「神のようになる」 これが人間が目指したものでした。
そして、神のようになるとは、善悪の判断を自分自身の手に握ることを目指したのです。

善悪の判断を自分の手に握るとき、人は罪の道へと進んでいきます。
先日の近藤牧師のメッセージにもありましたが、罪を罪とも思わない生き方へと足を踏み入れてしまうのです。

善悪の判断を人が握る道に、人生の幸せは約束されていません。
神の御言葉による判断の道に、人生の幸福と安全があるのです。

「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」(詩編119:1-2、9)

マリアが進んだ道はどんな道だったでしょうか。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:37)
主のはしため(女性の召し使い)と自分自身を位置づけています。

神のようになるとの道とはまったく正反対の道を、マリアは進もうとしています。

召し使いは自分の意志ではなく、主人の意志を行うために存在しています。

マリアは主の僕となり、主の御心を行うことを自分の意志で選び取っていったのです。

今日、私たちもマリアと共に答え、
マリアが進んだ道を、進んでいきましょう。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」



<マリアが得た幸せ>
マリアのその後の道のりは多くの困難があります。

①マリアの出産
普通の家ではなく馬小屋での出産。

②エジプトへ
そして、ベツレヘムに滞在したのも束の間、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害を逃れてエジプトへ移らなければなりません。
小さな子どもをつれての夜逃げ、そして夫の転職ということになるのでしょうか。

③ヨセフの死
公生涯の前に、ヨセフは亡くなったと考えられているわけです。

④イエスの十字架の死
マリアは自分のお腹を痛めた息子の死を、しかも無残な死を見なければなりません。

⑤マリアの晩年
マリアの晩年は使徒ヨハネとエフェソで過ごしたといわれています。

このようにマリアの生涯をこの世の基準で見てみるなら、本当に幸いであったと言い切ることが難しくなります。
それより、マリアの生涯は困難の連続と言えます。

けれども聖書の基準によって見る時、マリアは本当に恵みを受け幸いな生涯を送ったのです。
マリアの持っていた幸いの基準を、今日しっかりと心に留めましょう。
「主があなたと共におられる。」
「(主が)目を留めてくださった」

共にいてくださるお方、目を留めてくださるお方は、困難の起こる人生についてどのように言っておられるのでしょうか。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

勝利者であるイエス・キリストが共におられるのです。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
「主があなたと共におられる。」

2013年11月20日水曜日

特別聖会

深草ヨハネ教会の近藤新牧師をお迎えして、特別聖会がもたれました。

罪とは何か、ということについて、分かりやすい例が示されると同時に、
自分自身の心を深く探られました。

「罪とは、二つの尺度を持って計ることです。
他人を計る尺度と、自分自身を計る尺度が異なることにより、
同じ行為をしても、他人に対しては厳しく評価し、
自分自身には甘く評価してしまうのです。」

私たちは知らず知らずのうちに、この二重基準を用いているのではないでしょうか。

2012年9月7日金曜日

敬老祝福礼拝

次の日曜日は、敬老祝福礼拝です。

ハイデルベルク信仰問答を紹介いたします。

問1 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。

答  わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。


一時的な慰めではなく、生涯変わらない慰め。

それは、私自身が、自分のものではなく、 主イエス・キリストのものであるということです。


クリスチャンがしっかりと、この足場に立ったとき、

他者をうらやむことはなくなります。


自分の人生を走りきることの満足と感謝を経験できるのです。

あなたは一体だれのものなのでしょうか。

2012年7月9日月曜日

7/8礼拝メッセージ

ルツ記のメッセージは全ての時代へのメッセージと言えます。

・恵まれた中で生きている人に対しては、一人の人の信仰の行動によって、今の自分があることを思い起こさせるメッセージがあります。

・困難の中で生きている人に対しては、信仰者ルツに目を注いで、全能の神の導きと恵みを思い起すように励ましているのです。

<神に導かれたハッピーエンド>

ルツの物語は、全能の神の手の中で導かれ、幸福を獲得した物語です。

ボアズという一人の人がルツと結婚し、子どもが生まれるというハッピーエンドで結ばれていますが、

ヘブライ語の聖書の最後の単語は「ダビデ」という言葉です。

イスラエルの王国を築き、救い主の先祖となるダビデが誕生するために、

神様が導かれた出会いであることを思い起こさせるのです。

 

さて、モアブという外国から、イスラエルのベツレヘムへ移住したルツは、

生活のために落穂を拾います。その畑は、後に夫となるボアズの畑でした。

聖書は「たまたま」畑に導かれたと記しています。

他の聖書の訳では「はからずも」と、単なる偶然ではなく、全能の神の手に引かれたことが強調されています。

 

ボアズは全能の神の手に導かれたルツに対して、この畑を離れないように勧めます。

「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。」(ルツ2:8)

ボアズはイスラエル民族で、ルツは異邦人のモアブ民族です。

二人が結婚したことは、キリストとわたしたち異邦人の教会が一つになることを示しています。

そしてボアズがルツを自分の畑に引き止めたように、

キリストも私たちを招き、ご自分の恵みの場から離れないように勧められます。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)

「わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)

 

ボアズの畑でルツは落穂を拾いました。

けれどもその落穂は、ルツのために用意された、わざと落とされたものでした。

キリストの畑にも恵みが満ちています。

私たちは与えられる恵みによって生かされるのです。

ボアズはルツの生活を支えるために、わざと落穂を落とすように命じました。

キリストも私たちを日々保ち、生かすために恵みを与えてくださるでしょう。

キリストは今日、私たちを招いておられます。

「わたしの愛にとどまりなさい。」

神は愛なり

 

<ナオミから離れない決意>

ルツが素晴らしい祝福を受け取った原点を考えてみましょう。

モアブの地からユダヤのベツレヘムに移るときのルツの決心が、

祝福と信仰の原点と言う事ができます。

 

ナオミはルツが自分の世話だけをして、生涯を送ることを不憫に思い、

ルツに自分の道を歩むように進めます。

 

けれども、ルツは固い決心をしてこのように言いました。

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。

わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。

あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。

あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。

死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

 

ルツの言葉には、ただ単にナオミから離れないというだけではなく、

ナオミの信仰からも離れないとの決意をみることができます。

たった一人で生きていかなければならないナオミに同情するだけではなく、信仰宣言が含まれています。

「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」

 

ではナオミの信仰とはどのようなものでしょうか。

ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」(ルツ1:20)

 

自分を苦しい目に合わせたのは、「全能者」だと告白しています。

ただの神ではなく、「全能者」なのです。

今は不幸の中で過ごしているが、何でもできるお方の手の中で、わたしは歩んでいるとの告白です。

 

裕福であったヨブが、試みられたときこのように告白しています。

「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ2:10)

 

ナオミの神を自分の神とするとは、

良いときも悪いときもどんな時も全能の神の手の中にあるとの信仰に立つことなのです。

 

ルツの働きと信仰はダビデ王の誕生に結びつきました。

異邦人である私たちの信仰と働きは、キリストがもう一度来られるときに結びつくのです。

 

今日、ルツの信仰が私たちのものとなりますように。

キリストにしっかりと結びつき離れないとの告白の中で、

主の御名を唱えましょう。

 

「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。」(詩編80:19)

我は主なり