毎年出会うクリスマスの御言葉を開き、メッセージを準備していましたが、主は今年も新しい光を与えてくださいました。
<母マリアと最初の人間>
母マリアの人生は、決して楽なものではありません。
しかし信仰に立って彼女の人生を見るとき、聖書が評価している通り、「幸いな人」と言うことができます。
私たちは皆、幸せになることを願っています。
マリアが手にした幸せが私たちのものとなるために、どのようにすればよいのでしょうか。
マリアはどのようにして、幸せを得たのでしょうか。
聖書を見ていくとき、マリアの行為と最初の人間の行為が正反対になっていることを見ることができます。
最初の人間アダムとエバは罪を犯し、最も幸せな状態から転がり落ちていきました。
彼らが犯した過ちをしっかりと理解し、その反対を行うことによって、マリアは幸いな人となったと言えるのです。
私たちも、最初の人間を反面教師として、その正反対を行うことによって、聖書の示す幸せへとたどり着くことができるのです。
今日は、マリアが最初の人間の行為の正反対を行った二つの点を取り上げたいと思います。
<自由意志>
1つ目は「神の言葉」への対応の仕方です。
神が人間を創造されたとき、与えられた最も大きなものは「自由意志」です。
神は人間をロボットのようには創造されず、「自由意志」を与えられました。
それは人が自発的に神を愛し、人と交流するためです。
では人は神への愛をどのように表していたのでしょうか。
愛は、相手の言葉を大切にするという形で現すことができます。
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)
たった一つの神の戒めを守ること、これが人間にとって神を愛することの表現となっていました。
けれども人はその自由意志によって、神の掟を破ってしまいました。
人は神の言葉を捨てることによって、神ご自身を捨ててしまったのです。
そしてその行為は、結果としてエデンの園で持っている幸福を捨てることとなってしまいました。
では、マリアの行為はどうでしょうか。
最初の人間、神の言葉に疑問を抱いたように、マリアも神の言葉に疑問を抱きました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
けれども、マリアは最終的に答えました。
「お言葉どおり、この身に成りますように。」
今日私たちも、自分の意志を大いに働かせて、神の言葉を握りましょう。
「神から出る言葉で、実現の力のないものは、ひとつもありません。」(ルカ1:37、詳訳聖書)
「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
<主の僕となる>
2つ目は神様と自分との関係のあり方です。
最初の人間が善悪を知る木の実を食べるきっかけとなったのは、蛇の姿をとったサタンの誘惑でした。
サタンは「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と誘います。
「神のようになる」 これが人間が目指したものでした。
そして、神のようになるとは、善悪の判断を自分自身の手に握ることを目指したのです。
善悪の判断を自分の手に握るとき、人は罪の道へと進んでいきます。
先日の近藤牧師のメッセージにもありましたが、罪を罪とも思わない生き方へと足を踏み入れてしまうのです。
善悪の判断を人が握る道に、人生の幸せは約束されていません。
神の御言葉による判断の道に、人生の幸福と安全があるのです。
「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」(詩編119:1-2、9)
マリアが進んだ道はどんな道だったでしょうか。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:37)
主のはしため(女性の召し使い)と自分自身を位置づけています。
神のようになるとの道とはまったく正反対の道を、マリアは進もうとしています。
召し使いは自分の意志ではなく、主人の意志を行うために存在しています。
マリアは主の僕となり、主の御心を行うことを自分の意志で選び取っていったのです。
今日、私たちもマリアと共に答え、
マリアが進んだ道を、進んでいきましょう。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
<マリアが得た幸せ>
マリアのその後の道のりは多くの困難があります。
①マリアの出産
普通の家ではなく馬小屋での出産。
②エジプトへ
そして、ベツレヘムに滞在したのも束の間、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害を逃れてエジプトへ移らなければなりません。
小さな子どもをつれての夜逃げ、そして夫の転職ということになるのでしょうか。
③ヨセフの死
公生涯の前に、ヨセフは亡くなったと考えられているわけです。
④イエスの十字架の死
マリアは自分のお腹を痛めた息子の死を、しかも無残な死を見なければなりません。
⑤マリアの晩年
マリアの晩年は使徒ヨハネとエフェソで過ごしたといわれています。
このようにマリアの生涯をこの世の基準で見てみるなら、本当に幸いであったと言い切ることが難しくなります。
それより、マリアの生涯は困難の連続と言えます。
けれども聖書の基準によって見る時、マリアは本当に恵みを受け幸いな生涯を送ったのです。
マリアの持っていた幸いの基準を、今日しっかりと心に留めましょう。
「主があなたと共におられる。」
「(主が)目を留めてくださった」
共にいてくださるお方、目を留めてくださるお方は、困難の起こる人生についてどのように言っておられるのでしょうか。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
勝利者であるイエス・キリストが共におられるのです。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
「主があなたと共におられる。」
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