2012年10月29日月曜日
29日「海の歌」
出エジプト15:1-5 旧約p 117(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
1モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
2主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
3主こそいくさびと、その名は主。
4主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
5深淵が彼らを覆い
彼らは深い底に石のように沈んだ。
*聖書に記されている最初の賛美です。
賛美の内容は、主が行われた事柄を喜び、感謝し、主への信頼を告白するものです。
私たちも主を賛美しましょう。
2012年10月28日日曜日
28日「息あるものは」
詩編150:1-6 旧約p 989(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
1ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
2力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
3角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
4太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
5シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
6息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。
*私たちの状態は、神に何の影響も及ぼすことはありません。
ですから、私たちの状態に関わらず、
主を礼拝し賛美することが求められています。
神を賛美することは、人の務めと言えます。
2012年10月27日土曜日
27日「神に喜ばれる礼拝」
ローマ12:1-2 新約p 291(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
*私にとって忘れられない、
人生を決定づける聖書の言葉です。
この言葉が心に飛び込んできて、大きな衝撃を受けました。
聖書の言葉は生きていると実感した瞬間でした。
この言葉に力強く押され、牧師の道へと導かれました。
生きている聖書の言葉が、あなたの内にも力強く働きますように。
2012年10月26日金曜日
26日「へりくだった心で」
ルカ18:9-14 新約p 144(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10⌈二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。⌋
*人は他人と比較して、自分はマシだと考える傾向があります。
視点と基準が自分にあるとき、自分の真実の姿は見えてきません。
聖書の基準、創造主の視点から自分を見るとき、
人は本当の謙遜を身につけることができます。
2012年10月25日木曜日
25日「御名によって祈る」
詩編63:3-6 旧約p 895(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
3今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み
あなたの力と栄えを見ています。
4あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。
5命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。
6わたしの魂は満ち足りました
乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい
わたしの口は賛美の声をあげます。
*御名によって祈る行為は、私たちが自分自身ではなく、
創造主に期待をしていることの表明でもあります。
命のある限りとは、人生の一貫した生き方の表現です。
クリスチャンの生き方とは、
生涯を通して自分ではなく神様に期待する生き方です。
2012年10月24日水曜日
24 日「神の霊によって」
フィリピ3:3 新約p 364(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
*私たちが最終的に信頼しているのは誰でしょう。
どんな時にも重きを置いている言葉や人は誰でしょうか。
自分自身だけしか信頼できないということもよく聞きます。
「肉に頼らない」とありますが、
これは自分自身をも否定する言葉です。
クリスチャンは自分自身やその他の地上のものに頼るのではなく、
キリストを誇りとし、キリストに頼った生き方です。
もちろん人の助けを変えなければ人は生きていくことができません。
助けをもらう人の背後に、キリストの存在を発見するのです。
2012年10月23日火曜日
23日「死んだ業から清めて」
ヘブライ9:11-14新約p 411(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)
11けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
12雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
14まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
*礼拝は強制されていくものではありません。
「生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」とありますが、
キリストの十字架の血によって、清められ生かされたクリスチャンは、
喜びに突き動かされて、礼拝へと向かっていくのです。
クリスチャンの動機や行動の原動力は、
十字架を知るというところにあります。
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