2013年5月9日木曜日

9日「できるかぎりのこと」

 

 

マルコ14:6-9 新約p 90(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

6イエスは言われた。⌈するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

7貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

8この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

9はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。⌋

 

*この辺りは微妙な話になるとは思いますが、

「できるかぎり」という言葉を投げかけられた時、

「それは無理だ」、「無理することを強制している」と感じる人があると思います。

一方で、本当に難しい人と、逃げる口実になってしまう人が存在することも事実です。

「ガンバレ」という言葉が言いにくい時代ですし、

その言葉を負担に感じる人もあることも事実です。

けれども、今日はあえてその言葉を投げかけてみたいと思います。

「惜しむ気持ちと戦って、できる限りがんばろう!」

 

2013年5月8日水曜日

8 日「すぐに網を捨てて」

 

 

マタイ4:18-22 新約p 5(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

19イエスは、⌈わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう⌋と言われた。

20二人はすぐに網を捨てて従った。

21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

 

*「断捨離」を勧める本が幾つも出版されています。

自分にとって本当に必要なものを吟味することは、

新しいスタートにつながって行きます。

キリストの弟子として招かれることは、

別の面からいえば、自分が握っているものを手放すことです。

空になった手の中に、神様は大きな恵みを握らせてくださいます。

 

2013年5月2日木曜日

2日「三人の男」

 

 

ダニエル3:23-27 旧約p 1387(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

23シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。

24間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。⌈あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。⌋彼らは答えた。⌈王様、そのとおりでございます。⌋

25王は言った。⌈だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。⌋

26ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。⌈シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。⌋すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。

27総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。

 

*今日の題名は「三人の男」ですが、

正確には「四人目の男」ではないかと思います。

燃え盛る炉の中で、三人の若者が焼き尽くされなかったのは、

神が共におられたからです。

今日一日、私たちに降りかかる様々な出来事から

「四人目のお方」であるキリストが守ってくださいますように。

 

2013年5月1日水曜日

1 日「エレミヤ」

 

 

 

エレミヤ1:4-8 旧約p 1172(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

4主の言葉がわたしに臨んだ。

5⌈わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。⌋

6わたしは言った。⌈ああ、わが主なる神よ

わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。⌋

7しかし、主はわたしに言われた。⌈若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ

遣わそうとも、行って

わたしが命じることをすべて語れ。

8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて

必ず救い出す⌋と主は言われた。

 

*「胎から生まれる前に」という言葉から、

神様の大きな計画を見ることができます。

「わたし」という存在が、単なる親の願望や事情によって

生まれたのではないということなのです。