2013年12月21日土曜日

2013年12月16日月曜日

クリスマスメッセージ②「枕するところがない」

<馬小屋のイメージ>
私たちは聖書に記されている様々な出来事についてイメージを膨らませていきます。
けれども、後の時代になって描かれた絵画などが、私たちのイメージとして刷り込まれている場合が多くありますので、聖書の時代の文化というものを学びなおすという作業が必要になります。

最後の晩餐は、ダ・ビンチの絵などが強く入っていますので、テーブルを囲む姿がすぐに思い浮かぶかもしれませんが、実際には寝っころがるようなスタイルで行われていました。

さて、クリスマスについても私たちは様々なイメージに縛られています。

キリストが誕生した馬小屋は、木造の小屋のようなスタイルであり、飼い葉おけもまた、木製の入れ物とされているのが一般的なイメージです。

では実際にはどんなものだったのでしょうか。

ユスティノス(100年? - 162年?)らの伝える伝承によると、馬小屋は家畜避難用の洞窟といわれています。
そして飼い葉おけは、洞窟の側面を切り取り、くり抜いて桶の役割をするように作られたものとなります。

ベツレヘムの聖誕教会も、洞窟のような場所がキリストの誕生の場所となっており、多くの巡礼者が訪れています。

キリストの誕生のその場所を、イメージしてみてください。

洞窟の側面が削られ、そこに布にくるまれたキリストが置かれているのです。

このイメージは、別の出来事を思い起こさせないでしょうか。

そうです、キリストの誕生の姿は、十字架のあとの葬りとつながっていくのです。

「 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、
同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、
遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。」(ルカ23:50-53)



<キリストが枕された場所①船の中で>
さて、今日のメッセージは、キリストが切り抜かれた石の飼い葉おけに寝かされたことを思いつつ、キリストが生涯の中で、枕された場所を思い起こしたいと思います。

「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」」(マタイ8:18-22)

「人の子には枕する所もない。」
これは、キリストに従う道に安定した生活が保障されてはいないことを示しています。

それを聞いた弟子の一人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と発言します。

イエス様は自分の父親の葬りも赦されない、人情を知らない発言だと考えるかもしれません。
けれども、これは父が死んだのではなく、まだ健在で親孝行をし、子どもの務めを果たし、親を送ってから、キリストに従うということを意味しています。
つまり、キリストに従うことを無期限に延期しているのです。


そしてこのやり取りの直後に、ひとつの出来事が起こります。
「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。」(マタイ8:23-27)

マルコによる福音書では「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」と記しています。
船の中にあるものを枕にし、眠っておられます。そして、嵐が起こるのです。

「人の子には枕する所もない。」と言われたように、キリストに従う道に安定した生活がないことが示されています。

けれども、その一方で主はその嵐を鎮めることができるお方なのです。

今日、主に従う私たちの周りで、激しい嵐は起こっているでしょうか。
おぼれそうになることが起こっているでしょうか。

主はそれを静めることができるお方です。




<キリストが枕された場所②ゲッセマネの園と十字架で>
キリストの受難の時、キリストの頭はどこに接していたのでしょうか。

ゲッセマネの園において、キリストの頭は地面に付けられていました。

「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」(マルコ14:32-36)

ゲッセマネの教会には、キリストが祈られたという大きな岩が残されています。
キリストの頭は冷たく固い地面に触れ、少し離れたところで弟子たちが眠っていましたが、キリストは神の御心を一つとなるために、御心に従うために祈られたのです。


そして、キリストは、十字架にかけられ、十字架の木を枕とされました。
頭には茨の冠が冠せられ、休むためではなく、苦しむために枕しておられたのです。

クリスマスのその日、馬草の上に置かれたイエス様ですが、牧草は赤ちゃんイエス様の柔らかい肌に、チクチクと刺激を与えていたのではないでしょうか。

そして最後のとき、茨の冠がキリストの頭に痛みを与えるのです。


<十字架の黙想「茨の冠」>
  柔和で謙遜、平和の王である主御自身に対して、どんな王冠をもって戴冠式を行おうとするのでしょうか。
彼らは鋭いとげのついた茨をもってきて、悪魔的な技術の限りをつくし、たぐいのない王冠を、王の王、主の主の頭にかぶせようとするのです。
型に合わない冠を頭にかぶせようとして力任せに入れようとする、とげは用捨なく御頭の周りのいたるところに深く刺し入り、頭の血管は破れ血汐は流れ出て、尊い御顔は血汐にそまって、眼にしみ入ります。
 こんな戴冠式が、歴史上どこにあったであろうか。ここまで主に恥辱を与えた茨の冠こそ、人祖アダムが罪を犯してから後、呪われ出た罪のとげなのです。わたしたちが頭にめぐらせす悪智恵をもって犯せた罪の一つ一つが、こんな冠をつくり出し、一つ一つの鋭いとげとなって主を痛め申しあげたのです。
これは私たちの犯した知的犯罪を償うためにお受けになったものに違いありません。わたしたちは主にのみ茨の冠をいだかせて、自らは虚栄の花の冠をかぶりたいと望んでいるのではないでしょうか。
  シエナの聖女カタリナについてこんな美しいエピソードがあります。ある日主がカタリナにお現れになり、黄金の花の冠と茨の冠の二つを示し、「この中のどちらかを選びとりなさい」とおっしゃいました。彼女はその時少しもためらわず、喜びにあふれて魅了されたように「ああ主よ!私に茨の冠を与えてください」と、花婿である主と同じの茨の冠を選びとったのです。
その瞬間から彼女は大きな苦しみや病などをその身に絶え間なくうけて悩まされましたが、見舞う人々に向って「わたしは十字架を喜ばしく思います。もし主が、今天国に行くか、あるいはもうしばらくこの世にあって苦しむかとお尋ねになったなら、わたしはもうしばらくこの世において苦しむことを切にのぞみます。なぜならば、この世において苦難の十字架を、主と共に負うことによって、天国の幸福を得ることができるからです」と語りました。
  信仰の生涯の中で様々の苦難にあい、人々から誤解され、嘲笑され、冷たくあしらわれる時、主の茨の冠を深く黙想することは、どんなに慰めに満ちた信心の行為でしょう。そうすれば茨の冠は直ちに栄の冠となり、悲しみは去って、このうえもない慰めと変わるのです。
  主イエス・キリストの御受難を黙想することは、どれほど恵みを豊かに受ける手段でしょうか。
  人はこのような茨の冠を主の頭上にかぶせました。けれども、主はわたしたちには生命の冠と義の冠をもって報い、こたられるのです。

クリスマスメッセージ①「真実の幸いの道を進む」

毎年出会うクリスマスの御言葉を開き、メッセージを準備していましたが、主は今年も新しい光を与えてくださいました。

<母マリアと最初の人間>
母マリアの人生は、決して楽なものではありません。
しかし信仰に立って彼女の人生を見るとき、聖書が評価している通り、「幸いな人」と言うことができます。

私たちは皆、幸せになることを願っています。
マリアが手にした幸せが私たちのものとなるために、どのようにすればよいのでしょうか。
マリアはどのようにして、幸せを得たのでしょうか。

聖書を見ていくとき、マリアの行為と最初の人間の行為が正反対になっていることを見ることができます。

最初の人間アダムとエバは罪を犯し、最も幸せな状態から転がり落ちていきました。
彼らが犯した過ちをしっかりと理解し、その反対を行うことによって、マリアは幸いな人となったと言えるのです。

私たちも、最初の人間を反面教師として、その正反対を行うことによって、聖書の示す幸せへとたどり着くことができるのです。

今日は、マリアが最初の人間の行為の正反対を行った二つの点を取り上げたいと思います。


<自由意志>
1つ目は「神の言葉」への対応の仕方です。

神が人間を創造されたとき、与えられた最も大きなものは「自由意志」です。
神は人間をロボットのようには創造されず、「自由意志」を与えられました。
それは人が自発的に神を愛し、人と交流するためです。

では人は神への愛をどのように表していたのでしょうか。
愛は、相手の言葉を大切にするという形で現すことができます。

「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)
たった一つの神の戒めを守ること、これが人間にとって神を愛することの表現となっていました。

けれども人はその自由意志によって、神の掟を破ってしまいました。

人は神の言葉を捨てることによって、神ご自身を捨ててしまったのです。
そしてその行為は、結果としてエデンの園で持っている幸福を捨てることとなってしまいました。

では、マリアの行為はどうでしょうか。
最初の人間、神の言葉に疑問を抱いたように、マリアも神の言葉に疑問を抱きました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

けれども、マリアは最終的に答えました。
「お言葉どおり、この身に成りますように。」

今日私たちも、自分の意志を大いに働かせて、神の言葉を握りましょう。
「神から出る言葉で、実現の力のないものは、ひとつもありません。」(ルカ1:37、詳訳聖書)
「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)



<主の僕となる>
2つ目は神様と自分との関係のあり方です。
最初の人間が善悪を知る木の実を食べるきっかけとなったのは、蛇の姿をとったサタンの誘惑でした。
サタンは「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と誘います。

「神のようになる」 これが人間が目指したものでした。
そして、神のようになるとは、善悪の判断を自分自身の手に握ることを目指したのです。

善悪の判断を自分の手に握るとき、人は罪の道へと進んでいきます。
先日の近藤牧師のメッセージにもありましたが、罪を罪とも思わない生き方へと足を踏み入れてしまうのです。

善悪の判断を人が握る道に、人生の幸せは約束されていません。
神の御言葉による判断の道に、人生の幸福と安全があるのです。

「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」(詩編119:1-2、9)

マリアが進んだ道はどんな道だったでしょうか。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:37)
主のはしため(女性の召し使い)と自分自身を位置づけています。

神のようになるとの道とはまったく正反対の道を、マリアは進もうとしています。

召し使いは自分の意志ではなく、主人の意志を行うために存在しています。

マリアは主の僕となり、主の御心を行うことを自分の意志で選び取っていったのです。

今日、私たちもマリアと共に答え、
マリアが進んだ道を、進んでいきましょう。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」



<マリアが得た幸せ>
マリアのその後の道のりは多くの困難があります。

①マリアの出産
普通の家ではなく馬小屋での出産。

②エジプトへ
そして、ベツレヘムに滞在したのも束の間、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害を逃れてエジプトへ移らなければなりません。
小さな子どもをつれての夜逃げ、そして夫の転職ということになるのでしょうか。

③ヨセフの死
公生涯の前に、ヨセフは亡くなったと考えられているわけです。

④イエスの十字架の死
マリアは自分のお腹を痛めた息子の死を、しかも無残な死を見なければなりません。

⑤マリアの晩年
マリアの晩年は使徒ヨハネとエフェソで過ごしたといわれています。

このようにマリアの生涯をこの世の基準で見てみるなら、本当に幸いであったと言い切ることが難しくなります。
それより、マリアの生涯は困難の連続と言えます。

けれども聖書の基準によって見る時、マリアは本当に恵みを受け幸いな生涯を送ったのです。
マリアの持っていた幸いの基準を、今日しっかりと心に留めましょう。
「主があなたと共におられる。」
「(主が)目を留めてくださった」

共にいてくださるお方、目を留めてくださるお方は、困難の起こる人生についてどのように言っておられるのでしょうか。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

勝利者であるイエス・キリストが共におられるのです。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
「主があなたと共におられる。」

クリスマスのご案内

皆様のおいでをお待ちしています。




2013年11月25日月曜日

YCT例会(性についての学び)

教会の若者グループYCTの例会を行いました。
内容は、
・学び(性について)
・教会のクリスマス飾り付け


<性について>

DVD「性、その嘘と真実」を教材に学びました。

参加者に「オメデタ婚」について尋ねてみると。
「全然OK」、「良いとも悪いとも言えない」
という回答が帰ってきました。

DVD(アメリカで製作)には、不特定多数の性交渉のリスクについて語り、
避妊具が100%安全ではないことが強調されていました。

そして、性病(HIV)にかかった人、若くして妊娠出産した人の
ありのままの気持ちが語られていました。

そして、結婚までは性交渉をしないという「純潔」こそが、
もっとも安全な道であると勧められています。

「純潔」という言葉も死語となり、
「純血」と参加者も考えていたようです。
(ハリーポッターの影響?でしょうか。
尚、純白のウェディングドレスは、花嫁の「純潔」をあらわしています。)



「オメデタ婚」を否定することはできないでしょうが、
望まない妊娠の結果、
中絶や相手に逃げられるといったことも
起こっていることをしっかりと考える必要があります。

古い考え方と、笑われるかもしれませんが、
結婚するまでは「しない」という意思が、
自分自身も相手も守ることにつながるのです。

2013年11月20日水曜日

特別聖会

深草ヨハネ教会の近藤新牧師をお迎えして、特別聖会がもたれました。

罪とは何か、ということについて、分かりやすい例が示されると同時に、
自分自身の心を深く探られました。

「罪とは、二つの尺度を持って計ることです。
他人を計る尺度と、自分自身を計る尺度が異なることにより、
同じ行為をしても、他人に対しては厳しく評価し、
自分自身には甘く評価してしまうのです。」

私たちは知らず知らずのうちに、この二重基準を用いているのではないでしょうか。

2013年7月25日木曜日

25日「罪を海の深みに」

 

 

 

ミカ7:18-19 旧約p 1458(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18あなたのような神がほかにあろうか

咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に

いつまでも怒りを保たれることはない

神は慈しみを喜ばれるゆえに。

19主は再び我らを憐れみ

我らの咎を抑え

すべての罪を海の深みに投げ込まれる。

 

 

*神の赦しの大きさ、愛の大きさが示されています。

けれども赦しは犠牲なしに実現するのではありません。

イエス・キリストの十字架という大きな犠牲が払われたことによって、

赦しは実現したのです。

私たちが赦すことも、多くのことを乗り越える犠牲が必要です。

十字架の赦しが多くの人の心を動かしたように、

あなたの赦しが、相手の心を動かしますように。

 

2013年7月23日火曜日

23日「多く赦された」

 

 

ルカ7:47-50 新約p 117(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。⌋

48そして、イエスは女に、⌈あなたの罪は赦された⌋と言われた。

49同席の人たちは、⌈罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう⌋と考え始めた。

50イエスは女に、⌈あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい⌋と言われた。

 

*キリストの十字架によって、

全ての人は赦された存在です。

ですから、神に赦された者としての自覚の大きさが、

神を愛する行為に表現されていきます。

赦しを実感した人は、神を愛することができるようになります。

十字架の愛と赦しをもっともっと知ることができますように。

 

2013年7月22日月曜日

22日「罪を赦す権威」

 

 

 

マルコ2:9-12 新約p 63(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。⌋そして、中風の人に言われた。

11⌈わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。⌋

12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、⌈このようなことは、今まで見たことがない⌋と言って、神を賛美した。

 

*罪の赦しの宣言は口先だけで行うこともできるので、

それが真実のものであることを示すために

体の癒しを行い、罪の赦しの権威があることを示されました。

けれども、罪の赦しは将来起こる十字架の先取りでもあります。

キリストが十字架の苦しみによって、真実の赦しと癒しを提供して下さるのです。

 

2013年7月19日金曜日

19日「業を主に委ねる」

 

 

 

箴言16:1-7 旧約p 1011(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。

2人間の道は自分の目に清く見えるが

主はその精神を調べられる。

3あなたの業を主にゆだねれば

計らうことは固く立つ。

4主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。

5すべて高慢な心を主はいとわれる。子孫は罪なしとされることはない。

6慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。

7主に喜ばれる道を歩む人を

主は敵と和解させてくださる。

 

*私たちは色々な役割を果たしていきますが、

聖書はできる限りの準備をした上で、最後を主に委ねることを勧めています。

自分の思い通りではなく、最後の最後に手放し、

神の御心を求める姿勢が大切なのです。

 

2013年7月17日水曜日

17 日「父の戒め、母の教え」

 

 

箴言6:20-27 旧約p 998(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

20わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。

21それをいつもあなたの心に結びつけ

首に巻きつけよ。

22それはあなたの歩みを導き

あなたが横たわるとき見守り

目覚めればあなたに話しかける。

23戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。

24それはあなたを悪い女から

異邦の女の滑らかな舌から守ってくれる。

25彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。

26遊女への支払いは一塊のパン程度だが

人妻は貴い命を要求する。

27火をふところにかきこんで

衣を焼かれない者があろうか。

 

*次世代に伝える良い価値観を私たちはしっかりと持っているでしょうか。

何事にも流されてしまうのではなく、

変わらない価値観を持ち続けることは大切なことです。

少しくらい頑固に思われても、

良い価値観を次の世代に示し続けることができますように。

 

2013年7月16日火曜日

16日「自分の心を守れ」

 

 

 

箴言4:20-27 旧約p 995(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

20わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。

21見失うことなく、心に納めて守れ。

22それらに到達する者にとって、それは命となり

全身を健康にする。

23何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。

24曲がった言葉をあなたの口から退け

ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

25目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに

まなざしを正しく向けよ。

26どう足を進めるかをよく計るなら

あなたの道は常に確かなものとなろう。

27右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。

 

 

*人を生かす言葉も、傷つける言葉も私たち自身の心の中からの溢れです。

自分の心を守ることは、非常に大切なことです。

今日一日、自分の心の中に何を入れようとしているのか、

しっかりと吟味することができますように。

 

2013年7月15日月曜日

15日「常に主を覚えて」

 

 

 

箴言3:1-6 旧約p 993

1わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。

2そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し

平和が与えられるであろう。

3慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び

心の中の板に書き記すがよい。

4そうすれば、神と人の目に

好意を得、成功するであろう。

5心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず

6常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば

主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

 

*人間の分別は変わりやすく、安易な方向に行きやすいものです。

真実の知恵は、聖書の基準に従って歩むことにあります。

もちろん、紆余曲折や回り道も、人生には必要です。

けれども、最終的に道のりは自分の思い通りに進むことではなく、

創造主の御心を求めるところにあるのです。

 

2013年7月12日金曜日

12日「キリストのために」

 

フィリピ1:27-30 新約p 362

27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、

28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

 

*クリスチャンとなったことで物事が順調にいくことだけが恵みなのではありません。

困難や苦しみ、誤解さえも恵みとなるのです。

キリストと結ばれるとき、物事の見方が変わってきます。

今日置かれている状況が、恵みと変えられますように。

 

2013年7月11日木曜日

11日「イエスの死を負う」

 

 

 

2コリント4:8-12 新約p 329

8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、

9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。

11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

 

*信仰を持つことの効果が、よく記されている御言葉ではないでしょうか。

教会に行って何か得するの?と考えている人があると思いますが、

今日の御言葉が回答の一つになるでしょうか。

どんな困難でも打ち倒されないと同時に、

困難にあることが、人を生かすことに繋がっていきます。

全てが無駄にならないとの確信が、人を強く歩ませるのです。

 

2013年6月25日火曜日

25日「だれが礼拝するのか」

 

 

黙示録5:11-14 新約p 458(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

11また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。

12天使たちは大声でこう言った。⌈屠られた小羊は、

力、富、知恵、威力、

誉れ、栄光、そして賛美を

受けるにふさわしい方です。⌋

13また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。⌈玉座に座っておられる方と小羊とに、

賛美、誉れ、栄光、そして権力が、

世々限りなくありますように。⌋

14四つの生き物は⌈アーメン⌋と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。

 

 

*聖書の中で記されている、数少ない天国の光景です。

十字架で死んでくださったキリストに、

全ての造られたものが礼拝をささげています。

教会で行われる礼拝は、

天国での完全な礼拝に向かって進みつつ行われています。

イエス・キリストに礼拝をささげることによって、

人は霊的いのちと力が与えられていきます。

 

2013年6月7日金曜日

7日「出血が続いている女の信仰」

 

 

マタイ9:20-22 新約p 16(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。

21⌈この方の服に触れさえすれば治してもらえる⌋と思ったからである。

22イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。⌈娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。⌋そのとき、彼女は治った。

 

*女性の出血とは生理のことです。

12年間それが続くという病気を抱えていました。

旧約聖書には、生理の状態で物に触れると

触れたものは汚れた状態になると規定されていました。

これは女性の仕事負担の軽減のために定められたものだと思いますが、

この規定が彼女の人生に重苦しい日々を送らせることとなったのです。

イエス・キリストへの信仰によって癒しが起こりました。

このことは、イエス・キリストによって

聖書が完成されていくことも示している奇跡と言えるでしょう。

 

 

2013年6月6日木曜日

6日「百人隊長の信仰」

 

 

マタイ8:8-10 新約p 13(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

8すると、百人隊長は答えた。⌈主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。⌋

10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。⌈はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

 

*人はジャンルを問わず、「権威」というものを認めるようです。

簡単な例でいくと、白衣を着ているだけで、

眼差しに尊敬が込められて行くということがあります。

人間の知識には限界がありますので、

その道の専門家への尊敬の念が強くなるのでしょう。

 

今日の聖書箇所ですが、イエスの言葉の権威を認めていた隊長の信仰が、

大きな奇跡を引き出したことが記されています。

私たちも聖書の御言葉の権威を知り、認める時、

人生に大きな変化が起こってくるでしょう。

 

2013年5月9日木曜日

9日「できるかぎりのこと」

 

 

マルコ14:6-9 新約p 90(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

6イエスは言われた。⌈するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

7貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

8この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

9はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。⌋

 

*この辺りは微妙な話になるとは思いますが、

「できるかぎり」という言葉を投げかけられた時、

「それは無理だ」、「無理することを強制している」と感じる人があると思います。

一方で、本当に難しい人と、逃げる口実になってしまう人が存在することも事実です。

「ガンバレ」という言葉が言いにくい時代ですし、

その言葉を負担に感じる人もあることも事実です。

けれども、今日はあえてその言葉を投げかけてみたいと思います。

「惜しむ気持ちと戦って、できる限りがんばろう!」

 

2013年5月8日水曜日

8 日「すぐに網を捨てて」

 

 

マタイ4:18-22 新約p 5(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

19イエスは、⌈わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう⌋と言われた。

20二人はすぐに網を捨てて従った。

21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

 

*「断捨離」を勧める本が幾つも出版されています。

自分にとって本当に必要なものを吟味することは、

新しいスタートにつながって行きます。

キリストの弟子として招かれることは、

別の面からいえば、自分が握っているものを手放すことです。

空になった手の中に、神様は大きな恵みを握らせてくださいます。

 

2013年5月2日木曜日

2日「三人の男」

 

 

ダニエル3:23-27 旧約p 1387(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

23シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。

24間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。⌈あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。⌋彼らは答えた。⌈王様、そのとおりでございます。⌋

25王は言った。⌈だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。⌋

26ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。⌈シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。⌋すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。

27総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。

 

*今日の題名は「三人の男」ですが、

正確には「四人目の男」ではないかと思います。

燃え盛る炉の中で、三人の若者が焼き尽くされなかったのは、

神が共におられたからです。

今日一日、私たちに降りかかる様々な出来事から

「四人目のお方」であるキリストが守ってくださいますように。

 

2013年5月1日水曜日

1 日「エレミヤ」

 

 

 

エレミヤ1:4-8 旧約p 1172(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

4主の言葉がわたしに臨んだ。

5⌈わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。⌋

6わたしは言った。⌈ああ、わが主なる神よ

わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。⌋

7しかし、主はわたしに言われた。⌈若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ

遣わそうとも、行って

わたしが命じることをすべて語れ。

8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて

必ず救い出す⌋と主は言われた。

 

*「胎から生まれる前に」という言葉から、

神様の大きな計画を見ることができます。

「わたし」という存在が、単なる親の願望や事情によって

生まれたのではないということなのです。

 

2013年4月26日金曜日

26日「御子のために」

 

 

コロサイ1:13-17 新約p 368(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

*全てが御子のために造られたとありますので、

私たち自身も御子のために創造された存在です。

自分は自分のためにあると考えたいかもしれません。

けれども、完全な愛と完全な正義と

完全な導きをされる御子キリストのために

私たちが存在しているとの土台に立つ時、

私たちの人生は揺るぎないものとなっていくでしょう。

 

2013年4月24日水曜日

24 日「すべてのものは神から」

 

 

 

ローマ11:33-36 新約p 291(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

34⌈いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。

35だれがまず主に与えて、

その報いを受けるであろうか。⌋

36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

 

*私は誰のためにあるのでしょうか。

自分の人生は自分のもの、として生きている人がほとんどで、

自分の人生は他人のものとして生きることを強いられ、

苦しんでいる人があると思いますが、

聖書は私という存在は、神によって生かされ、神によって保たれ、

神に向かうように導かれて行くのだと言っているのです。

そして、神様の計画が私自身の上に完全に実現することが、

人生のゴールなのだと教えています。

 

2013年4月18日木曜日

18日「シオンよ、恐れるな」

 

 

 

ゼファニヤ3:14-17 旧約p 1474(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

14娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

15主はお前に対する裁きを退け

お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。

16その日、人々はエルサレムに向かって言う。⌈シオンよ、恐れるな

力なく手を垂れるな。

17お前の主なる神はお前のただ中におられ

勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ

愛によってお前を新たにし

お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。⌋

*私たちはが大きな変化を経験するのは、

どんなことがきっかけになるでしょうか。

大きな失敗をした時、壁にぶつかった時など、

様々あると思いますが、

最も大きな変化は、愛と出会った時ではないでしょうか。

見返りを求めない愛、無条件の愛に接した時、

私たちの内に大きな変化が起こってきます。

今日の御言葉に「愛によってお前を新たにし」とありますが、

神様の愛を知った時、私たちは変えられるのです。

 

2013年4月17日水曜日

17 日「あなたは わたしのもの」

 

 

イザヤ43:1-4 旧約p 1130(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1ヤコブよ、あなたを創造された主は

イスラエルよ、あなたを造られた主は

今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。

2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず

炎はあなたに燃えつかない。

3わたしは主、あなたの神

イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし

クシュとセバをあなたの代償とする。

4わたしの目にあなたは価高く、貴く

わたしはあなたを愛し

あなたの身代わりとして人を与え

国々をあなたの魂の代わりとする。

 

*「愛する」ことの形は様々あると思いますが、

聖書が示す愛の形は、「与え合う」ということだと思います。

この意識に立つことによって修復可能なカップルも、

多くあるのではないでしょうか。

今日の聖書の御言葉は、神と私たちが、お互いを与え合う関係になることを示し、勧めています。

神様からのラブレターである今日の御言葉を、

心の中であたため続けてください。

 

2013年4月11日木曜日

11日「従順を学ばれた」

 

 

ヘブライ5:7-10 新約p 406(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、

10神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

 

*従順と盲従は異なります。

従順は自分の意志によって行うものです。

キリストの従順は十字架の死に至るまでの従順でした。

そしてキリストの従順が私たちの救いへとつながったのです。

私たちが御言葉に従う時、素晴らしい実りを見ることができるでしょう。

 

2013年4月4日木曜日

4日「イエスとペトロ」

 

 

ヨハネ21:15-19 新約p 211(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、⌈ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか⌋と言われた。ペトロが、⌈はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです⌋と言うと、イエスは、⌈わたしの小羊を飼いなさい⌋と言われた。

16二度目にイエスは言われた。⌈ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。⌋ペトロが、⌈はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです⌋と言うと、イエスは、⌈わたしの羊の世話をしなさい⌋と言われた。

17三度目にイエスは言われた。⌈ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。⌋ペトロは、イエスが三度目も、⌈わたしを愛しているか⌋と言われたので、悲しくなった。そして言った。⌈主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。⌋イエスは言われた。⌈わたしの羊を飼いなさい。

18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。⌋

19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、⌈わたしに従いなさい⌋と言われた。

 

*感情や勢いだけで物事を進めて行くことには限界があります。

ペトロは気持ちを優先させる生き方に限界を感じていました。

大きな失敗を通して彼は生き方の方向転換を迫られたのです。

 

三度キリストを否定したペトロに、キリストは三度「愛するか」と問われました。

ペトロの答え方をみると、

感情の勢いでキリストに従う姿ではなく、

神の助けと恵みによって歩もうとする姿勢を見ることができます。

 

2013年4月3日水曜日

3 日「エマオで現れる」

 

 

ルカ24:28-32 新約p 161(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29二人が、⌈一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから⌋と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32二人は、⌈道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか⌋と語り合った。

 

*希望を失い、弟子団から離れて行こうとした二人を、

キリストが追いかけてくださいました。

私たちが希望を失いそうになったとしても、

キリストは追いかけて希望と喜びを与えてくださいます。

 

2013年3月21日木曜日

21日「わたしたちの助け」

 

 

詩編124:6-8 旧約p 970

6主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。

7仕掛けられた網から逃れる鳥のように

わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

8わたしたちの助けは

天地を造られた主の御名にある。

 

*神様からの助けは、信仰者からの助けだけではありません。

全てを創造された神は、ご自分の創造物の全てを用いて、

助けの手を差し伸べてくださいます。

様々な問題に捕らえられ、がんじがらめになったとしても、

神は逃れる場所を与えてくださいます。

 

2013年3月14日木曜日

14日「真理によって」

 

 

 

ヨハネ17:15-19 新約p 202(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

15わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

16わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。

17真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。

18わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。

19彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

 

*真理とは一体何でしょうか。

辞書を引くと「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。」

とあります。

大切なのは「いつどんなときにも変わることのない」という点です。

世の中はどんどん変化していきます。

その変化への対応だけに目を向けると、

大切なことを見失ってしまいます。

永遠に変わることのない基準を持つことが、

私たちの人生を正しい方向に導くのです。

神の御言葉である聖書は、私たちに変わることのない基準を与え続けてくれます。

 

2013年3月12日火曜日

12日「追い求めなさい」

 

 

 

ヘブライ12:14-17 新約p 417(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

14すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

15神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

16また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。

17あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 

*「追い求める」との言葉によって、私たちの積極性が問われています。

私たちが積極的に、自分の意志で何を追い求めているかを、

見つめ直して見ましょう。

今日一日、正しいこと、私たちの周囲が平和になることを、

積極的に求めることができますように。

 

2013年3月8日金曜日

8日「聖霊で満たされるように」

 

 

 

使徒9:15-19a 新約p 2308日「聖霊で満たされるように」 

15すると、主は言われた。⌈行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。

16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。⌋

17そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。⌈兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。⌋

18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、

19食事をして元気を取り戻した。

 

*「目からウロコ」の元になったエピソードです。

肉体の目が開かれると同時に、

イエス・キリストが救い主であり、神であるとの真理が開かれていきました。

私たちにも永遠に変わらない真理に

目が開かれていきますように。

 

2013年3月6日水曜日

6 日「豊かに注いで」

 

 

テトス3:4-7 新約p 398(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

4しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、

5神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

6神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

7こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

 

*キリスト教における救いは、

人間の側における行為の見返りとして与えられるものではありません。

神の側からの一方的な恵みによって与えられるものなのです。

私たちの側としては、恵みを受け取るために、

信仰という手を差し出すことが求められているのです。

 

2013年3月5日火曜日

5日「満ちあふれる神性」

 

 

 

コロサイ2:6-10 新約p 370

6あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。

7キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

8人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

9キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、

10あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

 

*自分の根っこを見直してみましょう。

私たちが何に根ざして生きるかによって、人生は大きく左右されます。

確かなものに根ざすなら、大きく成長することができるでしょう。

キリストに根ざし、キリストから命を受け取り、キリストによって歩むとき、

確かな歩みと成長に導かれるでしょう。

 

2013年3月1日金曜日

1日「十字架による和解」

 

 

エフェソ2:14-16 新約p 354(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 

*二つの相反するものを一つにすることが、十字架の効果です。

両方が十字架の元に集う時、

真実の一致と和解が成立します。

 

2013年2月28日木曜日

28日「罪の赦し」

 

 

コロサイ2:11-15 新約p 370(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

11あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、

12洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

13肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、

14規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

15そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

 

*もしも、私たちが過去の行為の全てのリストが提示されたなら、

私たちは恥ずかしくて外を歩けないでしょう。

全てを神は知っておられるとは、

そのようなものなのです。

けれどもキリストは十字架の血によってそのリストの全てを

塗りつぶしてくださったのです。

 

2013年2月26日火曜日

26日「十字架の引力」

 

 

ヨハネ12:27-33 新約p 192(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

27⌈今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

28父よ、御名の栄光を現してください。⌋すると、天から声が聞こえた。⌈わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。⌋

29そばにいた群衆は、これを聞いて、⌈雷が鳴った⌋と言い、ほかの者たちは⌈天使がこの人に話しかけたのだ⌋と言った。

30イエスは答えて言われた。⌈この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。

31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。⌋

33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 

*信仰は人からの強制で持つものではありません。

キリストは愛の引力が人をひきつけるのです。

キリストの十字架に愛を発見した時、

自然と引きつけられていくのです。

 

2013年2月25日月曜日

ご案内(3月3日日曜日)



3月3日(日)10:15~
どなたでも出席していただける、
バイブルサンデーです。

ぜひお越しください。



2013年2月22日金曜日

22日「顔と顔を合わせて」

 

 

 

出エジプト33:7-11 旧約p 149(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

7モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。

8モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。

9モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。

10雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。

11主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。

 

*情報化社会となり、SNSなどを利用して

人とつながることができるようになりました。

私もFACEBOOKなどを利用しています。

けれどもどんなに発達しても、

人が顔と顔を合わせて話をするということの

重要性は変わりません。

現に国同士においても首脳会談はお互いのコミュニケーションの

重要な部分を担っています。

神様との対話も同様です。

顔と顔を合わせるように、神に向き合い

聖書に向き合うひと時が必要なのです。

 

2013年2月20日水曜日

20 日「海の中を通る」

 

 

 

出エジプト14:19-25 旧約p 117

19イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、

20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。

21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。

22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

23エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。

24朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。

25戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。⌈イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。⌋

 

 

*海が割れてイスラエルの民が進むシーンです。

出エジプトのクライマックスシーンですね。

道のない海の中に、神は道を作り、イスラエルの民を逃れさせました。

私たちの期待しない場所でも、神は道筋を作ることの出来るお方です。

行き詰った状況でも、神は道を与えてくださいます。

 

2013年2月19日火曜日

19日「謙遜な人モーセ」

 

 

 

民数記12:2-8 旧約p 233(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

2彼らは更に言った。⌈主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。⌋主はこれを聞かれた。

3モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。

4主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。⌈あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。⌋彼ら三人はそこに出た。

5主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、⌈アロン、ミリアム⌋と呼ばれた。二人が進み出ると、

6主はこう言われた。⌈聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば

主なるわたしは幻によって自らを示し

夢によって彼に語る。

7わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。

8口から口へ、わたしは彼と語り合う

あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず

わたしの僕モーセを非難するのか。⌋

 

 

*リーダーシップの一つの形であり、

聖書が推奨するリーダーシップでもあります。

偉大な指導者であったモーセですが、誰よりも謙遜な人でした。

リーダーでもありながら、自分自身は神様をリーダーとして

認めていたということです。

神の偉大さを知れば知るほど、人は自分の未熟さを知り、

謙遜になっていくのです。

 

2013年2月18日月曜日

18日「わたしはある」

 

 

 

出エジプト3:13-15 旧約p 97(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

13モーセは神に尋ねた。⌈わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。⌋

14神はモーセに、⌈わたしはある。わたしはあるという者だ⌋と言われ、また、⌈イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。⌋

15神は、更に続けてモーセに命じられた。⌈イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名

これこそ、世々にわたしの呼び名。

 

*「わたしはある」とは、神が他の何にも依存せずに存在していること、

また永遠の初めから永遠の終わりまで存在していることの宣言です。

私たちが目にするもの、また私たち自身は、存在に原因がありますが、

神は他のものに依存することなく存在しておられるのです。

弱さを感じる時、私たちの存在の源である方に、

目を向けることができますように。

 

2013年2月13日水曜日

13 日「罪と戦う」

 

 

 

ヘブライ12:1-6 新約p 416(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。⌈わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、

力を落としてはいけない。

6なぜなら、主は愛する者を鍛え、

子として受け入れる者を皆、

鞭打たれるからである。⌋

 

*信仰を持って進むことは、ある面においては

この世の価値観に反する生き方でもあります。

周囲と道徳観が異なる場合、

ある行為に対する罪意識に差が生まれます。

どんな場合であっても、

罪と戦う意思と忍耐が与えられますように。

 

2013年2月12日火曜日

12日「神の武具」

 

 

エフェソ6:10-13 新約p 359(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

 

*自分で自分を強くすることには限界があります。

信仰によって神が私たちを強くしてくださるのです。

私たちを弱める様々な力が働いてくるかもしれませんが、

力強く対抗できますように。

 

2013年2月5日火曜日

5日「住み、巡り歩く」

 

 

2コリント6:16-18 新約p 332(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

16神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。⌈『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、

彼らはわたしの民となる。

17だから、あの者どもの中から出て行き、

遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

18父となり、

あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

全能の主はこう仰せられる。⌋

 

 

*一つ屋根の下に住むということは、簡単なことではありません。

色々な理由があって一緒に住むわけですが、

その基盤としてお互いの「愛」と「信頼」が必要なのではないでしょうか。

キリストが私たちの心に住むためにも、

「愛」と「信頼」が必要です。

キリストはもちろん私たちを愛しておられますから、

私たちの側の「愛」と「信頼」が必要となります。

お互いの「愛」と「信頼」が満ちている時、

その歩みは喜びが満ちることでしょう。

 

2013年2月4日月曜日

4日「キリストがあなた方の内に」

 

 

ローマ8:9-11 新約p 284(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 

*人は社会的な生き物です。

社会的と言う意味の中には、何かに属すると言う所属感があると思います。

自分が孤独ではなく、何かのグループなりに属しているという意識は、

私たちが考えている非常に重要なことです。

クリスチャンがキリストに属する人です。

クリスチャンとしての所属意識が、

人に充実感を与えると同時に、生きがいも与えるのです。

今日一日、私たちが属している場所で、

充実感と生きがいを感じることができますように。

 

2013年1月31日木曜日

31日「神の子イエス・キリスト」

 

 

ローマ1:1-4 新約p 273(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

2この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、

3御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

4聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

 

 

*クリスチャンの信仰とは、イエス・キリストをどう捉えるかにかかっています。

歴史上に確かに存在した人物ではありますが、

永遠の初めから存在していた神であり、

十字架の死によって全てが終わったのではなく、

復活し今を生きる私たちに働きかけてくださる方なのです。

 

30 日「真実の神」

 

 

 

1ヨハネ5:18-21 新約p 447(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。

19わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。

20わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。

21子たちよ、偶像を避けなさい。

 

 

*産まれた赤ちゃん成長し、様々な事を吸収していきます。

聞くことから始まり、聞いている内容を理解し、

そして聞いた事柄に応答し行動して行きます。

神様の命をいただき、新しく生まれた者も同じです。

いまいち分かりにくかった聖書のいメッセージも、

信仰の光によって理解できるようになります。

そしてただ聞くだけではなく、応答し行動するようになるのです。

 

2013年1月30日水曜日

スペシャルジョイランド(お茶会)

お茶会をしました。

 

普段正座をすることもほとんどありませんが、

 

じっと静かにお茶がくるのを待ちました。

 

抹茶の味が苦手な子どももいましたが、

 

ほとんどの子は飲み切っていました。

 

 

2013年1月28日月曜日

28日「神の栄光の反映」

 

 

 

ヘブライ1:1-4 新約p 401(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、

2この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

3御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

4御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

 

世界は神の御子であるイエス・キリストによって創造されました。

そして、今も世界を支えておられます。

そのキリストの言葉に注目するように聖書は私たちに勧めます。

 

2013年1月25日金曜日

25日「悔い改めるヨブ」

 

 

 

ヨブ42:1-6 旧約p 83325日「悔い改めるヨブ」 

1ヨブは主に答えて言った。

2あなたは全能であり

御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

3⌈これは何者か。知識もないのに

神の経綸を隠そうとするとは。⌋そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた

驚くべき御業をあげつらっておりました。

4⌈聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。⌋

5あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し

自分を退け、悔い改めます。

 

*ヨブは苦難の意味について細かく知ることはできませんでした。

けれども、全てを創造しておられる神が

全てを掌握しておられるとの信仰に立つことが出来ました。

私たちの人生に起こってくる、理由の分からない苦しみも、

全ては創造主の手の中で動き、

その全てに意味があるのです。

 

2013年1月23日水曜日

23 日「神を仰ぎ見る」

 

 

 

ヨブ19:23-27 旧約p 800(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

23どうか

わたしの言葉が書き留められるように

碑文として刻まれるように。

24たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され

いつまでも残るように。

25わたしは知っている

わたしを贖う方は生きておられ

ついには塵の上に立たれるであろう。

26この皮膚が損なわれようとも

この身をもって

わたしは神を仰ぎ見るであろう。

27このわたしが仰ぎ見る

ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

 

 

*聖書は人間の存在の目的をどのように記してるでしょうか。

人間は、神と交わるために人は創造されました。

神を仰ぎ見ることは、人間の存在の意義として最も大切なものなのです。

人生のゴールが見えた時、私たちはその先について考えるようになります。

永遠に存在し続けたいと、人は求めるようになります。

全てのものが自分の手の中からこぼれ落ちることを知った時、

人の心は創造主との交わりを強く求めるようになります。