2012年12月30日日曜日

30日「あなたに感謝を」

 

 

詩編75:2 旧約p 910(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名はわたしたちの近くにいまし人々は驚くべき御業を物語ります。

 

*クリスチャンにとっての感謝は、

神様から何かを受け取ったということではなく、

御名である神ご自身が、私たちと共におられたという事実を発見することにあります。

この一年、尾道教会でも様々なことがありました。

アンネ・フランク展、しまなみクリスマスコンサートなど

大きな企画もありました。

すべてにおいて、神様が共におられたことを感謝します。

 

2012年12月27日木曜日

27日「喜びにあふれた」

 

 

マタイ2:9-11 新約p 2(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

*小さな星が、東方の学者たちを素晴らしい出会いへと導きました。

私たちをキリストに招く星は何でしょうか。

小さな星、小さなきっかけが、素晴らしい出会いへと導きます。

そんなきっかけが、新しい年にありますように。

 

2012年12月25日火曜日

25日「救い主がお生まれになった」

 

 

ルカ2:8-12 新約p 103(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

10天使は言った。⌈恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。⌋

 

*天使の大合唱はどんな歌だったのでしょうか。

素晴らしい歌だったに違いありませんが、

それを聞けたのは貧しく、見下げられていた羊飼いでした。

クリスマスの祝福は、意外なところに最初に伝えられました。

 

2012年12月23日日曜日

23日「神の賜物」

 

 

ローマ6:22-23 新約p 282(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

22あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

23罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 

*クリスマスが近づき、子どもたちはどんなプレゼントがもらえるのか、

ワクワクしていることでしょう。

昨日は神原病院内教会学校のクリスマス会をしましたが、

予想と違うプレゼントを受け取り、

良い意味で驚いてくれました。

私たちににも、神様からのプレゼントが提供されてます。

それはキリスト御自身です。

明日はクリスマスイブですね。

そのプレゼントを受け取ることができますように。

 

2012年12月22日土曜日

22日「主があなたと共におられる」

 

 

ルカ1:26-28 新約p 100(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

28天使は、彼女のところに来て言った。⌈おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。⌋

 

*人の幸せの基準が示されています。

主が共におられることが、人間の本当の幸せです。

マリアは若い時代にこの基準を持ち、

困難な人生を生き抜いた人です。

 

2012年12月20日木曜日

20日「待望している主」

 

 

マラキ3:1 旧約p 1499(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は

突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者

見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

 

*救い主キリストが現れる場所として聖所(神殿)が示されています。

老預言者シメオンは、神殿で幼子キリストと出会いました。

神様の約束を握り続ける人は幸いです。

 

2012年12月19日水曜日

19 日「朝を待つにもまして」

 

 

詩編130:5-8 旧約p 973(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

5わたしは主に望みをおき

わたしの魂は望みをおき

御言葉を待ち望みます。

6わたしの魂は主を待ち望みます

見張りが朝を待つにもまして

見張りが朝を待つにもまして。

7イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに

豊かな贖いも主のもとに。

8主は、イスラエルを

すべての罪から贖ってくださる。

 

*私たちはどれくらい待つことができるでしょうか。

短期的な事柄だけではなく、

長期的に待っているものはあるでしょうか。

親の代から待っていることを持っている人は稀だと思います。

イスラエル民族は、メシアの誕生を待ち望みました。

聖書の約束を次の世代へと引き継いでいったのです。

気の遠くなるような待ち方です。

そしてクリスチャンは、もう一度来ることを約束された

キリストを世代をリレーしながら待ち続けているのです

 

2012年12月15日土曜日

15日「救いに通じる悔い改め」

 

 

2コリント7:8-10 新約p 333(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

8あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、

9今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。

10神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

 

*一般的な悲しみの中に自分を置き続けると、人は弱っていきます。

しかし罪に対しての悲しみは、私たちに救いと慰めと命へと導くものです。

イエス・キリストは

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

と語っておられますが、

その意味がここにあります。

 

2012年12月14日金曜日

14日「神の忍耐」

 

 

2ペトロ3:8-9 新約p 439(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。

9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

 

*私たちは自分が過ごす時のことをどのように考えているでしょうか。

80年の人生が与えられていたとしても、

それはあっという間に過ぎ去る時間です。

けれども人には神の前に永遠と言う時間を超えた場所が存在しています。

「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」

と言われる場所で私たちがどうあるかを、聖書は重要視しているのです。

 

2012年12月13日木曜日

13日「打ち砕かれ悔いる心」

 

 

 

詩編51:18-19 旧約p 885(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18もしいけにえがあなたに喜ばれ

焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら

わたしはそれをささげます。

19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を

神よ、あなたは侮られません。

 

*打ち砕かれるという事は、私たちにとってとても辛い経験です。

人からの言葉や攻撃によって打ち砕かれる時、私たちの精神は疲弊します。

けれども神によって砕かれるのは、人からのものとは異なります。

悔い改めは私たちの霊が砕かれることです。

霊が砕かれることによって、神の愛が浸透しやすい、柔らかな心となるのです。

 

2012年12月12日水曜日

CSクリスマス会

毎週土曜日に開かれているジョイランドの、
クリスマス会を行います。

12月22日() 午後2:00~ です。

ぜひ来てください。
お待ちしています。

 

12 日「告白して罪を捨てる」

 

 

箴言28:12-14 旧約p 1028(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

12神に従う人々が喜び勇むと輝きは増し

神に逆らう者が興ると人は身を隠す。

13罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。

14いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人。心の頑な者は苦難に陥る。

 

*企業などが問題を隠蔽工作したことによって、

より大きな問題に発展していること私たちはニュースなどで知っています。

失敗や過ちを隠し続ける先に、良い発展はありません。

人も同じことが言えます。

神様の前に自分は完全だと誇れる人は誰もいないはずです。

自分の不完全さを認めつつ進む道に、真実の祝福はあるのです。

 

2012年12月11日火曜日

11日「罪を公に言い表す」

 

 

 

1ヨハネ1:7-10 新約p 441(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

7しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

9自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

10罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

 

*神が全てを知っておられるなら、祈る必要があるのでしょうか。

また、告白する必要があるのでしょうか。

今日の御言葉は、神の側の問題ではなく、

私たち自身が自分自身を、また罪をどのように認識しているかが問われているのです。

自分のありのままの姿を見つめ、認め、

神様の前に赤裸々になるとき、真実の赦しを経験できるのです。

 

2012年12月10日月曜日

10日「放蕩息子」

 

 

 

ルカ15:17-20 新約p 139(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

18ここをたち、父のところに行って言おう。⌈お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください⌋と。』

20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 

*息子はわたしたちを、父親は神様のことを表しています。

そして、この譬え話のテーマは神の愛と赦しです。

私たちが方向転換(=悔い改め)をすることを待ち続け、

受け入れてくださるのです。

 

2012年12月8日土曜日

8日「正義が造り出すもの」

 

 

 

イザヤ32:15-18 旧約p 1112

15ついに、我々の上に

霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり

園は森と見なされる。

16そのとき、荒れ野に公平が宿り

園に正義が住まう。

17正義が造り出すものは平和であり

正義が生み出すものは

とこしえに安らかな信頼である。

18わが民は平和の住みか、安らかな宿

憂いなき休息の場所に住まう。

 

*私たちはそれぞれ異なった価値観を持っています。

その価値観に基づいて行動を起こすわけです。

もちろん迷いもありますが、信念をもって行動します。

それを正義と呼ぶことができるでしょう。

それぞれの異なった正義が争いを生みます。

正義と正義が対立します。

けれども、神の正義は平和を作り出すためです。

それは公平と愛に満ちた正義です。

私たちの個人的な正義も、平和を作り出すものとなりますように。

 

2012年12月6日木曜日

6日「イスラエルの上に」

 

 

ガラテヤ6:14-16 新約p 351(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 

*人はどのようにして新しくスタートできるのでしょうか。

聖書は、キリストの十字架によって、

新しい基準が生まれることを言っています。

キリストの十字架と私が一つとなるとき、

この世は自分に対して何の力もないものとなります。

この原理に生きる中に、真実の平和があるのです。

 

2012年12月5日水曜日

5 日「シャローム」

 

 

 

ルカ10:5-6 新約p 125(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

5どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

6平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

 

*聖書の言葉であるヘブライ語の挨拶は「シャローム」と言います。

シャロームとは、平和という意味です。

自分の平和だけではなく、相手や周囲の平和を求める挨拶です。

自分中心に平和を求めるのではなく、

相手も含めた人間関係の平和を求めて祈りましょう。

 

2012年12月4日火曜日

4日「平和の契約」

 

 

イザヤ54:9-10 旧約p 1151(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

9これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。

再び地上にノアの洪水を起こすことはないと

あのとき誓い

今またわたしは誓う

再びあなたを怒り、責めることはない、と。

10山が移り、丘が揺らぐこともあろう。

しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず

わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと

あなたを憐れむ主は言われる。

 

 

*人の約束は絶対のものではないかもしれません。

けれども、神様の約束は絶対のものです。

今日の御言葉には、創造主の変わらない約束が記されています。

人生に多くの問題や困難は起こりますが、

契約は破棄されず、平和は必ず与えられるのです。

 

2012年12月3日月曜日

3日「平和が告げられる」

 

 

ゼカリヤ9:9-10 旧約p 1488(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者

高ぶることなく、ろばに乗って来る

雌ろばの子であるろばに乗って。

10わたしはエフライムから戦車を

エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ

諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ

大河から地の果てにまで及ぶ。

 

*王の入城に使われる動物は、普通は馬です

けれどもキリストの入城で使われた動物は、ロバでした。

それは武力によって平和を確立するのではなく、

人に仕えることによって、平和を確立するためです。

他者の奉仕は平和につながるはずです。

私たちの小さな働きが、平和につながっていきますように。

 

2012年12月1日土曜日

1日「気を落とさずに」

 

 

ルカ18:1-7 新約p 147(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

2⌈ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』⌋

6それから、主は言われた。⌈この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

 

 

*イエス・キリストの譬え話には、ユーモアが含まれています。

今日の御言葉には、不正な裁判官が登場します。

あってはならないことですが、現実には存在していたのだと思います。

根っからの不正な裁判官でさえ、

訴えのうるさい女性のために正しい裁きをするのだから、

公平な神様は必ず正しい裁きをし、

私たちを見捨てないということです。

そんな神様を信じ、真実の答えを得るまで、祈り続ける人は幸いです。

 

2012年11月30日金曜日

30日「”霊”に助けられて」

 

 

エフェソ6:18-20 新約p 359(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。

20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

 

 

*日本のことわざには、

「触らぬ神に祟りなし」「困った時の神頼み」

というものがあります。

つまり、神を必要としないことが安定した生活であり、

幸せであるとの考え方があるのです。

ですから、祈りといえば

どうして自分の必要や願い事を依頼するものに偏ってしまいます。

つまり私たちの祈りは自己中心の祈りに陥りがちなのです。

適切な祈りをささげるためには神の霊である聖霊の助けが必要です。

神にサポートされた祈りをささげることができますように。

 

2012年11月29日木曜日

29日「いささかも疑わず」

 

 

ヤコブ1:5-8 新約p 421(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

5あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。

6いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。

7そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

8心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

 

*私たちの家に起こってくる問題、それを簡単な言葉で表すと

「足りない」ということではないでしょうか。

自分自身の能力や愛情が「足りない」

金銭面や健康面で「足りない」

大切なものは失って初めて気付くと言いますが、

現状が満たされていると感じられる人は少ないのではないでしょうか。

本当は満たされているという場合は別にして、

神様は私たちの本当の必要満たすことのできるお方です。

しかも惜しみなく与えてくださいます。

大きな期待を持って、祈り求めることが許されているのです。

 

2012年11月28日水曜日

28 日「教会で」

 

 

使徒12:1-5 新約p 236(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、

2ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

3そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。

4ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。

5こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。

 

*一人はみんなのために、みんなは一人のために

という言葉がありますが、

一人の人の救いや必要のために、多くの人が祈っている今日の光景は、

それを実践していると言えるでしょう。

そして、祈りによって教会が一つになった時、

どれほど素晴らしい力を持っているかが示されています。

 

2012年11月27日火曜日

27日「心を一つにして」

 

 

マタイ18:18-20 新約p 35(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。⌋

 

*心を合わせることの大切さが語られています。

祈りのひと時は、心を合わせる具体的な表現です。

そして、心を合わせる祈りに祈りには、大きな期待を持つことができるのです。

 

2012年11月26日月曜日

26日「祈るときには」

 

 

マタイ6:5-6 新約p 9(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

5⌈祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 

*祈りは神との個人的な対話でであることと、

他者を意識した行為を戒めることが記されています。

祈りを難しく考える必要はありません。

今置かれている現実と現状を神に報告し、訴えればよいのです。

また、何か行うとき

その動機がどこにあるかを冷静に確認する必要があるでしょう。

今日一日、神に向かう真実の祈りをささげることができますように。

 

2012年11月24日土曜日

24日「健康であるように」

 

 

3ヨハネ2 新約p 449(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。

 

*今の時代はとかく自分中心になりやすいものです。

他人のことよりも、自分のことを優先しがちです。

自分がするよりも、してもらうことを求めがちです。

私たちの身近に健康を必要としている人がいるでしょうか。

体の健康、心の健康、霊の健康です。

自分の身近な人、大切な人の魂が恵まれ、健康が祝されるように祈りましょう。

 

2012年11月23日金曜日

23日「祈ってもらいなさい」

 

 

ヤコブ5:14-15 新約p 426(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

14あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

15信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

 

*病気のとき、支えてくれる人は誰でしょうか。

何をどのようにして支えてくれるでしょうか。

病気によっては何もできない場合もあります。

ただ見守るだけでしょうか。

すべての方策が尽きたように見える中で、

もう一つできることがあります。

それは祈ることです。

誰かに祈ってもらうことを依頼したことはあるでしょうか。

あなたの周囲のクリスチャンに、

祈りを求めてみてください。

きっと大きな支えを経験できるはずです。

 

2012年11月22日木曜日

22日「病をすべて癒される」

 

 

詩編103:1-5 旧約p 939(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって

聖なる御名をたたえよ。

2わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

3主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

4命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け

5長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

 

 

*心が病めば体も弱り、

心が元気になれば体も元気になります。

今日の御言葉には、病の癒しの前に罪の赦しが言及されています。

私たちの霊の癒しは、病の癒し以上に大切な癒しです。

それは神の前に何の不安もなく立つことができる健全さなのです。

今日、愛である神様の癒しが与えられますように。

 

2012年11月21日水曜日

21 日「38年の病のいやし」

 

 

 

ヨハネ5:5-9a 新約p 171(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。

6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、⌈良くなりたいか⌋と言われた。

7病人は答えた。⌈主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。⌋

8イエスは言われた。⌈起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。⌋

9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

 

*病人は現状の原因を他者に責任転嫁しています。

私たちも現状の理由を、他に責任転嫁していないか、

自己吟味をする必要があります。

またイエスは、「良くなりたいか」と尋ね、

自分の本当の気持ちに向き合うように導いておられます。

どちらも真摯に自分に向き合うことの大切さを教えています。

 

2012年11月20日火曜日

20日「あなたをいやす主」

 

 

 

出エジプト15:26 旧約p 119(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

 

*癒しという言葉はすっかり定着しましたが、

その内容については人それぞれの基準があるのではないでしょうか。

聖書が示す癒しは、体と心と霊の全人格的な癒しです。

そして最も重要な癒しは、永遠の存在である私たちの霊の癒しです。

 

2012年11月19日月曜日

19日「ナアマンのいやし」

 

 

列王記下5:10-14 旧約p 584(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

10エリシャは使いの者をやってこう言わせた。⌈ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。⌋

11ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。⌈彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。

12イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。⌋彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。

13しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。⌈わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。⌋

14ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 

*ナアマンの体は子どものようにスベスベした肌となりましたが、

その秘訣は、彼の心が神の言葉に従う柔軟な

子どものような心となったことなのです。

 

2012年11月17日土曜日

17日「ヨナにまさるもの」

 

 

マタイ12:39-41 新約p 23(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

39イエスはお答えになった。⌈よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。

40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。

41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。

 

*ヨナの経験は、キリストの死と復活を予告するものでした。

クリスチャンもまた、キリストの生と死を

世に現わす働きを持っています。

今日一日、私たちの上に起こる良いことも辛いことも、

すべてがキリストを現わすことができますように。

 

2012年11月16日金曜日

16日「惜しまずにいられるか」

 

 

 

ヨナ4:10-11 旧約p 1448(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

10すると、主はこう言われた。⌈お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。

11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。⌋

 

*一晩で生えた植物の日陰が、

あっという間に枯れてしまったので、

ヨナは神様に文句を言いました。

それに対しての神様の返事が今日の御言葉です。

ヨナにとってニネベは政治的な関係から、受け入れにくい人々でした。

けれども神にとっては、ご自分の創造物であり、愛すべき人々だったのです。

自分にとっては価値のないものでも、

他の人にとっては大切な場合が良くあります。

あるいはその価値が自分に見えていない場合もあります。

軽々しく価値を否定しないようにしたいものです。

 

2012年11月15日木曜日

15日「ニネベの悔い改め」

 

 

ヨナ3:1-5 旧約p 1447(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1主の言葉が再びヨナに臨んだ。

2⌈さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。⌋

3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。

4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。⌈あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。⌋

5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。

 

*ヨナの呼びかけに、ニネベの町の住人と王は耳を傾け、悔い改めました。

この素晴らしい実りを結ばせるために、ヨナを用いられたのです。

私たちも自分の主張に耳を傾けてくれる人が、

誰もいないとあきらめてはいないでしょうか。

あなたの言葉に耳を傾けてくれる人が、きっといるはずです。

 

2012年11月14日水曜日

14 日「救いは主に」

 

 

 

ヨナ2:7b-11 旧約p 1446(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

7しかし、わが神、主よ

あなたは命を

滅びの穴から引き上げてくださった。

8息絶えようとするとき

わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き

聖なる神殿に達した。

9偽りの神々に従う者たちが

忠節を捨て去ろうとも

10わたしは感謝の声をあげ

いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。

11主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

 

*行動は、その人の考えや意思の表現です。

信仰も行動によって表現することができます。

けれども人は年齢を重ねると運動能力が衰えたり、

状況によっては、何もできないように思う場合があります。

絶体絶命と思われる状況でも、まだ一つ人は信仰の行動を起こすことができます。

それは主の御名を呼ぶということです。

主の御名を呼ぶことはどこでもできる信仰の行動です。

 

2012年11月13日火曜日

13日「陰府の底から」

 

 

ヨナ2:1-3 旧約p 1446(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

2ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、

3言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと

主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると

わたしの声を聞いてくださった。

 

*魚の腹にいるという状況にありながらも、

命を保っていることを思い、主が助けてくださったとことに感謝をささげています。

一見最悪と思われる状況でも、

見方が変わるときそこに救いを発見することができるのです。

最悪は、実は最悪ではない可能性があるのです。

 

2012年11月12日月曜日

12日「わたしのせいで大嵐が」

 

 

 

ヨナ1:9-12 旧約p 1445(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

9ヨナは彼らに言った。⌈わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。⌋

10人々は非常に恐れ、ヨナに言った。⌈なんという事をしたのだ。⌋人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。

11彼らはヨナに言った。⌈あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。⌋海は荒れる一方だった。

12ヨナは彼らに言った。⌈わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。⌋

 

*今日の場所はヨナの魅力が満載の名シーンです。

ヨナは自分の感情に素直に生きています。

嵐の責任を認め、ジタバタすることなく

嵐の打開策を提案しています。

責任を感じた時、そこから逃げ出さないという姿は、

私たちにとって大きな光です。

強い自己主張は、強い責任感とセットであるべきでしょう。

 

2012年11月11日日曜日

11日「ヨナの逃亡」

 

 

ヨナ1:1-3 旧約p 1445(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。

2⌈さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。⌋

3しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。

 

*ヨナは自分の感情や思いに正直に生きている人です。

神様の言いなりになることを嫌い、命令に背きました。

それはアッシリアの首都ニネベは敵国であったために、

感情的に受け入れられなかったのです。

そのようなヨナを、神様は段階を踏んで導かれるのです。

 

2012年11月10日土曜日

10日「神を見る」

 

 

 

マタイ5:8-10 新約p 6(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

8心の清い人々は、幸いである、

その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、

その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

 

*清いとは、まっすぐ、ひたむきな様子を表しています。

神にまっすぐに向かう人は、神との出会いを経験するでしょう。

 

2012年11月9日金曜日

9日「備えをせよ」

 

 

アモス4:12-13 旧約p 1433(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

12それゆえ、イスラエルよ

わたしはお前にこのようにする。

わたしがこのことを行うゆえに

イスラエルよ

お前は自分の神と出会う備えをせよ。

13見よ、神は山々を造り

風を創造し

その計画を人に告げ

暗闇を変えて曙とし

地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。

 

 

*私たちは様々な不測の事態に備えようと努力をします。

危機や危険をできるだけ避けようとするのは自然な思いです。

私たちは様々な備えをしようとして行きますが、

今日の聖書の言葉は、もう一つの備えを強調しています。

それは神と出会う備えです。

後悔のない生き方をすることや、

正しい事を選ぼうとすること。

人の前だけではなく、

神の前に立つことができる生き方をすること。

もちろん全てがうまくいくわけではありませんが、

その意識の中に生きることが重要なのです。

神様からの恵みによって、今日一日備えをすることができますように。

 

2012年11月8日木曜日

8日「イザヤ」

 

 

イザヤ6:4-7 旧約p 1069(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

4この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

5わたしは言った。⌈災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は

王なる万軍の主を仰ぎ見た。⌋

6するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。

7彼はわたしの口に火を触れさせて言った。⌈見よ、これがあなたの唇に触れたので

あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。⌋

 

 

*五十歩百歩、人のふり見て我がふり直せ

どちらも自分の姿を見つめなければならないことを教えています。

他人には厳しく、自分には甘い、これが人間本来の姿でしょう。

自分自身を見つめるということが非常に難しいものです。

 

今日の聖書の登場人物イザヤも同じです。

彼は正義感に燃えてイスラエル民族の批判の言葉を述べています。

けれども神の栄光の前に立ったとき、他者への非難は消え、

人は自分の醜さと現実を知ることになります。

その時に、神の救いの手が伸ばされていくのです。

今日一日、他者への批判の前に自分を見つめることができますように。

 

2012年11月7日水曜日

7 日「ヨブ」

 

 

ヨブ42:1-6 旧約p 833(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1ヨブは主に答えて言った。

2あなたは全能であり

御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

3⌈これは何者か。知識もないのに

神の経綸を隠そうとするとは。⌋そのとおりです。

わたしには理解できず、わたしの知識を超えた

驚くべき御業をあげつらっておりました。

4⌈聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。⌋

5あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し

自分を退け、悔い改めます。

 

*人生には不条理と思えることが起こることがあります。

「なぜ?」「どうして?」と自問しても答えは見つかりません。

今日の聖書の登場人物ヨブも、人生の不条理を経験しました。

これは問い続けましたが答えは見つかりませんでした。

そして最後に全てを掌握しておられる神と出会います。

神が人の理解をはるかに超えた偉大な存在であることを知ったことによって、

ヨブは自分の身に起こることの全てを理解できなくても、

人生のすべてを委ねることができるようになりました。

 

2012年11月6日火曜日

6日「ヤコブ」

 

 

創世記28:16-17 旧約p 46

16ヤコブは眠りから覚めて言った。⌈まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。⌋

17そして、恐れおののいて言った。⌈ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。⌋

 

*日本人は無神論であるとよく言われていますが、

実際にはそうではなく、神を意識しないところに、

人の幸せがあると考えていたようです。

「困った時の神頼み」という言葉が示すように、

困らないことが人間にとっての幸せであり、

つまり神を求めないことが、人の幸せにつながっているということなのです。

キリスト教は全く逆の考え方です。

神が共におられると言う事を発見するところに、

人の幸せがあるのです。

 

今日の御言葉を見ると、

最も身近におられる神の存在を発見し、驚き喜んでいます。

私たちも発見することができますように。

 

2012年11月5日月曜日

5日「イサク」

 

 

創世記26:23-25 旧約p 41(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

23イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。

24その夜、主が現れて言われた。⌈わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす

わが僕アブラハムのゆえに。⌋

25イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。

 

 

*私たちが親から受け継いだ価値観にはどんなものがあるでしょうか。

家風と言うと少々古めかしい考え方と感じるかもしれません。

最近はあまり重要視されていないかもしれませんが、

もう少し大事にしても良いように感じます。

あまり軽視すると、

子育てが無駄だという極論に走ってしまうかもしれません。

 

けれども実際には無視しているようでも、

知らず知らずのうちに考えの土台となっていく部分もあるはずです。

 

今日の御言葉ですが

アブラハムの礼拝の行為を同じようにイサクも行っています。

祝福と信仰を、しっかりと引き継いでいる姿を見ることができます。

 

私たちも良いものはしっかりと受け継いでいきたいものです。

 

2012年11月4日日曜日

4日「アブラハム」

 

 

創世記17:1-5 旧約p 21(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。⌈わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。

2わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。⌋

3アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。

4⌈これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

5あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。

 

*老齢のアブラハムにとって、神が「全能」であると

ご自身を啓示されたことは、

信仰を固くする上で必要なことでした。

神はそれぞれにもっともふさわしい御名を名乗って、

私たちに出会ってくださるのです。

 

2012年11月3日土曜日

3日「賛美、誉れ、栄光」

 

 

黙示録5:12-14 新約p 458(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

12天使たちは大声でこう言った。⌈屠られた小羊は、

力、富、知恵、威力、

誉れ、栄光、そして賛美を

受けるにふさわしい方です。⌋

13また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、

そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。

⌈玉座に座っておられる方と小羊とに、

賛美、誉れ、栄光、そして権力が、

世々限りなくありますように。⌋

14四つの生き物は⌈アーメン⌋と言い、

長老たちはひれ伏して礼拝した。

 

*地上にあるもので完全なものは何一つありません。

けれども不完全なものでも完全を目指して進むところに

物事の価値はあるのではないでしょうか。

 

礼拝という行為についても同様です。

教団や教会によって礼拝のスタイルはまちまちです。

どれが完全なのか判別することはできません。

 

今日のみ言葉には、天国の礼拝の光景が記されています。

ここで行われる礼拝が完全な礼拝です。

十字架で死なれたキリストに、すべてのものが賛美と礼拝をささげています。

 

地上での礼拝は不完全なものかもしれませんが、

この完全な礼拝に向かって毎週捧げられているのです。

 

 

2012年11月2日金曜日

2日「マリアの賛歌」

 

 

ルカ1:46-50 新約p 101(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

46そこで、マリアは言った。⌈わたしの魂は主をあがめ、

47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

48身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も

わたしを幸いな者と言うでしょう、

49力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

50その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

 

*皆さんは幸せですか。

何が幸せであるかは人によって様々であると思います。

自分が幸せな人であると告白できるというのは、

本当に素晴らしいことです。

救い主の母となるという予告を受けたマリアは、

自分が幸せだと告白しています。

彼女にとっての幸せは、

神が私に目を留めてくださったことを発見したことにあります。

 

2012年11月1日木曜日

1日「主に向かって心から」

 

 

エフェソ5:15-20 新約p 358(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。

16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。

17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、

19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。

20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

 

*何が自分にとって霊的な益となるかを考える必要があります。

この地上のあらゆる出来事は、永遠のものではないからです。

今日一日、永遠の自分に目を向けて、物事を判断することができますように。

 

2012年10月31日水曜日

31 日「信仰によって強められ」

 

 

ローマ4:20-21 新約p 279(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)


20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。

21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。

 

*イスラエルの太祖アブラハムのことを言っています。

彼は自分自身の状況に希望が持てないときでも信仰を持ちました。

自分が安定し強くなってから信仰を持つのではありません。

信仰によって強められるのです。

キリストを信じて仰ぐとき、私たちに力と愛と命が注がれます。

 

2012年10月30日火曜日

30日「あなたの家に住む」

 

 

詩編84:1-5旧約p 921(引用は、日本聖書協会発行『聖書新共同訳』)

1【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】

2万軍の主よ、あなたのいますところは

どれほど愛されていることでしょう。

3主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。

命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

4あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り

つばめは巣をかけて、雛を置いています。

万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。

5いかに幸いなことでしょう

あなたの家に住むことができるなら

まして、あなたを賛美することができるなら。

 

*自分にとっての一番の幸せは何でしょうか。

人はそれを探し求めて一生を送っているのではないでしょうか。

自分にとっての幸せに確信を持っている人は稀かもしれません。

そのような人は、私たちの目に眩しく映ることでしょう。

 

今日の御言葉は、人にとっての最大の幸福が記されています。

人生の中で、神の働きかけを経験し、神の元にとどまり、

賛美することができることが人の本当の幸せなだと聖書は言っているのです。